精神分析のススメ

1970年代のNYCで一世を風靡したヒップな精神分析の啓蒙をめざす狂気専門家のブログです。

キチガイ の 効用

整体の大家

野口晴哉の本に

「風邪の効用」

というタイトルがあります

 

あやかってみました

 

野口整体では

風邪をひくことには

躰の重心の偏りを正す過程として

失われたバランスを取り戻す効用がある

といいます。

 

風邪を上手に経過すると

老廃物が排出され

スッキリ

風邪を引く前より

健やかな状態になる

という考えです。

 

野口整体の考え方自体

「体癖」という

無意識の躰の動きに注目し

調整する為に活元運動を誘発する

など…

ゲシュタルト療法*1にも

通じる所があるのでは…

とか思ったりして

大変興味深いので

とりあえず

興味の在る方は

是非とも「風邪の効用」をじっくり読んでみて下さい。

 

今回の記事では、

整体で言われる「緊張」と「弛緩」のアンバランスは

心の病にも通じるのではないか。

という点に集中したいと思います。

 

精神を患った人はキチガイと言われます。

「キ」がチガう人とは

周囲には

理解できない行動や

思考を提示する人のことを言います

 

本人が、

 

周りの理解が得られない…自分はオカシイに違いない。

 

と、受診することもあれば…

 

周りがどーしてよいか分からないので

「ちょっと、これ、どーにかしてよ」

と連れてくる

 

ということもあります。

 

例えば

統合失調の患者さんによく看られる迫害妄想。

 

アメリカには、退役軍人や、元諜報員が

ザラザラいます。

 

そーゆー方々は、

決して漏洩してはならないと

神に誓った国家機密とかご存知です。

 

時にはヒミツの重さにストレスを感じて

メンタルをやられることもあります。

 

し か し

 

スーパースパイ引退したからといって、

ハイパー殺し屋引退したからって、

自責の念でメンタルやられたからといったって、

ペラペラ喋れません。

 

もしかしたら、自分は見張られているのかも…

 

と、アレな感じになってしまったりします。

 

そんな時に、

 

この方迫害妄想ガッツリなので、向精神剤処方!

 

と、あっさり行かないこともママあるのです。

もしかしたら

腕にチップが仕込まれていて

本当に一部始終監視

盗聴されているのかもしれませんからね*2

…というのは冗談としても

辻褄が合いすぎる

ちゃんと、聞いてる私たちが

「本当に監視されてるのかもしれない…」

と納得してしまう「お話」をする方も

意外と居るからです 

 

そんな時には

その人達の話の

どこまでが「妄想」で

どこからが「現実」か

という部分よりはむしろ

その方の日常生活がどれだけ乱されているか

という点に焦点を当てて

お話を聞いていくワケです。

 

ヒミツを打ち明けられないので誰にも心を許せない(孤立感、孤独感)。

とか、

見張られていることで常にピリピリ緊張してしまう(不安)。

とか、

夜もゆっくり眠れない(不眠)。

とか、

家族にいつも見られていると訴えてはウザがられる(対人関係問題)

ナドナド…

 

結局、

監視されている(かもしれない)ストレスと

本人が如何に折り合いをつけて

日常生活を安寧におくれるか

という所が(本当に見張られているかどうか、という「現実」よりも)

「精神病」の診断を下す上で、重要になってくるのです。

 

してみると

精神のバランスを失ってしまった人達というのは、

適当な場面で精神的緊張を解いて休めなかったり

自制心を弛緩させてはいけない場面でブッツリとキレてしまう人達

とも言えましょう。

 

緊張と弛緩のアンバランスは

当人や周囲にとっては

危機的に辛くとも

ストレスを解消するための

個人と環境とのバランスを取り戻す第一歩である

とも言えるのです。

 

いつもながら、前置きが長くなりました。

疲れてきたので、さくっと締めに入ります。

 

周囲が一個人を「キチガイ」として

問題視するだけでは

キチガイ」な人達の孤立感は益々酷くなり

「病気」も益々酷くなります。

 

個人の病がこじれると

周りはもっと困惑し

適切な対処もどんどんできなくなります。

 

悪循環です。

 

皆が「同じ」規格に寄り添う、平和な社会

 

なんて、クソ退屈なだけではありません。

 

何か大変なコトが起こると皆で仲良く全滅します。*3

 

「不適応」な人達は、多様性の賜物です。

 

ゴッホだって、

Public domain

ゴーギャンとの?)失恋の痛手で耳切って

絵を描く社会不適合者で

絶賛「キチガイ」でしたからね。

 

キチガイ」な人達がいなくなったら

世の中つまらないし

「豊か」さがなくなります。

 

物質的には「豊か」な現代。

 

色々と…

キチガイじみた人達が

キチガイじみた事件を起こす昨今…

「多様な」皆が生きやすく

適応ストレスを感じない様

精神的にも豊かで

安心できる環境を作ることで

個人の精神の歪みを最小限に食い止め

ひいては

社会の歪みを是正するためにも

必要なのではないでしょうか。

 

嗚呼….

又説教臭くなってしまった…(反省)

*1:グループでパワフルな効果を発揮するテクニックです。例えば、腕組みをしている人に、「あなたの腕は何をいいたいのでしょうか」とか聞くと、突然泣き出してしまったり、無意識に働きかけるポテンシャル膨大です。

*2:だからこそ

キチガイ対応で

ちゃんとお薬処方した方が良いのかもしれませんが

…ああ、コワイ

*3:遺伝子の多様性が保たれないと

種としては環境の変化に対応できず

存続不可能

って、アレですわ

分析的解釈 と 【精神分析】

最近、遅ればせながらツイッターにハマって更新が滞っておりました。

 

調子に乗って、ブコメツイッターでは、かなりフロイディアン(クレイジー)なインタープリテーション(分析的解釈)をかましたりもしていますが、ブログでは良識的(というか、最後まで読むのがウザい?)な私。

 

誤解が深まる前に、精神分析的治療と、精神分析的解釈の違いについて、説明しておこうかな、と思います。

 

ヤノユウさんに、大根

第16話 クラゲ人間化計画の不審な行動 - クラゲ化計画

のメタファーについて、ご質問を頂いたので、図に乗って以下の回答をさせて頂きました。

 

 

 

まあ、こーゆークレイジーな解釈が冗談ではなく、ガチに心理療法の臨床現場でまかり通っていた時代もありましたが、そんなん、フロイト教授や、ミセスクラインが現役バリバリでやってた古き良き時代の話です。

今は精神分析も流石にそこまで尖っていません。

もーちょっと良識的です。

 

とは言うものの、強迫神経症の患者さんに

「あなたの強迫観念の芯には死の恐怖が在ります」

とか言ってしまって、例え患者さんが

「そーだったのか!」

と納得されたとしても、症状が軽減することはまずありません。

 

逆に、死の恐怖が増大して症状が悪化してしまう可能性の方がアルアルかも…

 

ってな感じです。

 

精神分析家も、クレイジーなだけではありません。

 

良識的で、賢い方々も沢山おられます。

 

分析的解釈ががっつり「当たり」でも、患者が良くならないなら、精神分析的治療は如何にあるべきか。

 

という問題について(私も)日々、真摯に向かい会っておられます。色々と小難しい理論も沢山あります。

 

が、まずは、原点に立ち戻り、リビドー(欲動)と精神病の治療について、書いてみたいと思います。

 

フロイト

精神病は、ワイは催眠療法の才能がからっきしやったので 自由連想を通してリビドーの(病的)固着を解き明かし、解消することで治療できる

みたいなことを主張しました。

 

これは、どーゆーことかというと(この辺、がっつり私的な読みですが…)

 

何か嫌(不快)なことを克服できないと、そのことで(無意識の)こだわりが生まれてしまう。

そーなると、後々大変なことになりますよ。

どーゆーふーに大変かと言うと、他人どころか、自分でも理解できない様な病的(クレイジー)な行動に表れてしまいますよ。

自分ではどうすることもできないクレイジーな思考や行動を解消するには、今のクレイジーな行動の原点にある不快感を覚えた出来事についてお話しましょう。

元々の不快な経験が何だったのかが分かれば、今の理不尽(クレイジー)な行動を取る必要がなくなります。

 

って感じですかね。

 

元々の不快な経験が何だったか分かったところで、それで今の病的な志向が失くなるなら、

例えば

毒親のせいで私には自己肯定感がない

と「当たり」な解釈を自分で得て、毒親とは縁をきっちゃった人達は、

 

例えば、自由ネコさんの記事

自己肯定感が低く、生きづらさを抱えている人が最初に取り組むべき事 - 自由ネコ

に書かれているように、

 

子供の頃に親に肯定されなかった分を、今からでも取り戻してください。

自分で自分を肯定しまくって下さい。

何度でも何度でも。

自然に自己を肯定できるようになるまで。

 

って感じに頑張れば(あ、頑張っちゃイケナイのよね)健全に生きていける筈。

 

なのですが、そーは問屋がおろさない。(いや、自己分析でガンガン自分を変えていけるスゴイ人達も沢山いますよ)

 

自己分析もソコソコいけますが、精神分析の本領はやはり、分析家と密に詰めていく過程で発揮されるモノだと思います。

 

坂爪さんの記事

1日1回、自分が恐れていることをやりなさい。 -

を読んで思ったのですが、自分が恐れていることにたった独りで向き合うなんて、コワイじゃないですか。

楽しくないとできません。

自分の一番コワイ、見たくない部分を一緒に覗く「誰か」になるのが、精神分析家だと、私は思っています。

 

坂爪さんの「裸になる」メタファーについては、まだまだ書きたいことがあるのですが、ここまでで、もう既に3時間くらい掛かってます。

オーマイガー!どんだけ書くのに時間がかかってるんや!やってらんね~!

ってなりますよ。

ええ。

ですから、きっとツイートの方が向いていますね。

 

疲れたので、唐突ですが、今日はこの辺でお終いにしようと思います。

 

とりあえず、精神分析的治療を受けても、

「ふーむ…ということは、5歳の時のその経験から、去勢願望が強迫観念として植え付けられたのですね」

みたいな、クレイジーなことは(真性フロイディアンとか、クライニアンならアリかも…)言われませんから、ご安心の上、是非ともご査証下さい。

ということが言いたくて、この記事を書きました。

 

精神分析で自分の闇を廻間見るのも、ナカナカ、素っ裸になる興奮を伴って、エキサイティングですよ。

世界文明 と 欲動の鬱憤

今朝、ラジオを聴いていたら「文明への不満」というフロイトの論文タイトルを連想する出来事がありました。

 

4人でくだらないトークをする典型的アメリカンの朝ラジオ番組の、パーソナリティの一人、インド出身のガンディーさんが、インドに里帰りしたは良いけれど、空港で足止めを食らって帰って来れなくなった、という話をしておりました。

印カースト最下層出身者ら、ヒンズー至上主義に抗議デモ 写真4枚 国際ニュース:AFPBB News

この事件に巻き込まれて、12時間ムンバイのホテルから出られなくて、落ち着いた隙をぬってバスで空港へ向かおうとしたら、暴動で道路が封鎖されているため、空港にやっとこさ辿り着いたものの飛行機に乗り遅れた、という話を電話でされていました。

ガンディーさん曰く、

「バスに乗っていたら、石を投げられた」

そうで、それに対して、スタジオの相棒が、

「観光客が何したっていうのさ。何で石投げて来るんだ」

ってな質問をしたのに、ガンディーさんが

「200年前にあった(イギリスの支援を受けた)不可触民対(ヒンズーの)上流階級の武士の戦いが理由」

という、まあ、ワケの分かる様な、分からん様な応答をし、それに対して、スタジオのアホ気な相棒が、

「そんな大昔のことを根に持って暴動が起こったりするから、俺はインドなんか絶対行かないよ。休暇はメキシコのビーチでリゾートしに行くのが一番」

みたいなコト言ってて...

 

聴いてた私は、

「ダメだこりゃ。こいつら、911があったのに、ナンも学んでないわあー」

と絶望してしまったワケです。

 

滅茶苦茶単純にすると、インドの暴動も911も、「持てる者達」に対する「持てない者達」の鬱憤が爆発したテロ事件、と言えましょう。

 

「持てない者」が暴力に訴えることが「仕方ない」とは決して思えません。

 

が、911事件で、アメリカンの

「何の罪もない人達が、邪悪なイスラム教徒のせいで沢山死んだ」

という見方は

「ちょっと違うやろ」

と思ってしまいます。

 

ニューヨークの世界貿易ビル(日本語にしてみると、つくづく思いますが、エゲツナイ名前ですねー)は所謂後進国といわれる国々の安価な労働力や資源を搾取して儲けたカネを更に転がして増やす、貧富の格差をガンガン拡げる資本主義の歪みの象徴でもありましょう。

(しかも、アノ崩れ落ち方、どー見ても飛行機が燃えて熱くなったからって不自然すぎ。民間人は入れない基地のど真ん中で飛行機が落ちたアレも、ごく普通に考えたら、あんたらが撃ち落としたに決まっとるやんけ!って思うんですけどね。自己欺瞞の闇は底しれない)

 

フロイトの理論には、

人間は「欲しい」という「欲動」に突き動かされて生きている。

という大前提があります。

 

「欲動」を規制するモノには、自分の肉体的限界や確固たる自然の驚異に加えて、文化や集団社会がある。

文明発展の為には個人の利己的な「欲動」の暴走を制限し、歯止めをかけることが必要なので、文明は常に自我の不満のタネである。

というのが彼の「文明への不満」の出発点でもあります。

 

全ての欲求を満足させると罰せられる為、

「幸福」=「欲動の充足」

になり得ず、葛藤が生まれる。

 

というのですが、まあ、フロイト的には欲求充足の原型が、

父を殺して母を娶る

なので、欲求充足したら罰せられるのも当然で...

 

悲劇的なフロイトは、

「幸福」=「欲動の妥協」

コースで落ち着いたようです。

が。

 私的には、

利己的な欲動は、「充ち足りる」ということを知らない。

のみならず、他者をないがしろにしがちなので、罪悪感をどーにかせんならん。

ということに尽きるのではないかと思います。

 

だから、(フロイトもホノメカしていますが)「愛する」ことを、自分が傷ついたり、損したりするのではないか、という不安や、恐怖抜きで思いっきりできるようになれば、万々歳なのではないでしょうか。

 

「文明への不満」は、利己的にカネ儲けの欲動に突き動かされ、無自覚に貧富の格差に貢献し、世界文明の終焉に拍車をかける現代人の鬱憤とも言えましょう。

 

過剰消費に歯止めをかける、「充足」は如何に得られるのか。

「持てない者達」の鬱憤は如何に暴発を避けられるのか。

如何に人は、必要ないモノは潔く諦め、欲しいモノを惜しみなく愛することができるのか。

 

(そして、ガンディーさんは、無事アメリカにたどり着いたのでしょうか。

インド並みに貧富の差が激しく政情不安定なメキシコでリゾートしたい、アホンだれな同僚と仲良く朝のラジオ番組に戻れるのでしょうか。

気になります。

が。)

 

(今の所)平和な日本にお住まいの皆様には、日々の充足を得、世界の平穏を守る為に、精神分析などは、如何でしょうか?

 

種子法廃止 と 世界文明の終焉 - 精神分析のススメ

欲望の暴走(過剰消費)と乖離(貧富の格差)に折り合いをつける為にも。

種子法廃止 と 世界文明の終焉

農業も、経済も私には専門外のことなので、手をつけるのが億劫でくすぶっておりました。

 

が、頑張ってみようと思います。

 

何で種子法廃止が最悪の事態なのか。

 

この方の解説を参考にしました。 

https://peraport.milliwalk.com/20_05_20/

 

タネをまけば農作物が採れる。

自分で育てた作物のタネを次の年まで取っておけば

又翌年作物を育てられる。

そのタネを友達に分ければ友達も

農作物を育てられる。

 

その「自由」がなくなることは

恐ろしいことです。

 

前年取っておいた種を蒔いても

食べて美味しい作物が育たないように品種「改良」が進み

そんな「当たり前」なことはもう既にできない

という話はありますが…

 

種子法では

 

日本人の主食である

米だけは

国が開発改良する権利を有する

(米のタネの権利は国が持つ)

 

という「規制」がかかっていたのが

種苗法では

 

民間企業が米のタネを開発して良いですよ

 

となったことで物議を醸しています。

 

アメリカでは

バナナやいちご、オレンジ等の果物を

デルモンテやドール、サンキストの様な

モンスターコングロマリット

独占しています。

 

欧米では

小麦やとうもろこしは

モンサント社登録商標をした

GMO製品しか作付けできない状況になっている

という話を聞きます。

 

しばらく前になりますが

在来種を育てる中小農家はモンサント社に摘発され

賠償金を払って廃業か

モンサントの種苗を買って農業を続けるかを

選択しなければならない。

隣の大農場で育てるモンサント種との交配が進むため

「在来種」が「モンサント種」になってしまうから。

というコワいドキュメンタリーを見ました。

 

アメリカで検索しても上がってきません。

 

モンサント反対運動や

アメリカの種苗法の分かり易い説明も

上がってきません。

 

いかにモンサントがコワイか、まとめてある記事がありました。*1

門サントF1種裁判 モンサント社の悪質さ、恐ろしさを調べていると、・・ アメリカで「野菜栽培禁止令」発令! - HDD

 

 

 

アメリカの原住民は

イギリス人を受け入れた時

土地の所有という概念を持たなかった、

と言います。

その為白人が勝手に決めた土地法により

「合法的に」故郷を追われ流浪することになりました。

 

日本の地方自治体が開発した

米のタネの「利権」を

民間企業に与える

というのは

誰のモノでもなかった

アメリカ原住民の土地を奪い、

彼等を排斥した

植民地政策や

好きな歌を歌い奏でる自由を奪う

JASRACの「規制」に通じるモノが

あるのではないでしょうか。

 

日本のシャープも

韓国の企業に買われてしまいました。

 

種苗法は表向き

日本人の開発した種苗を

欧米ジャイアントに

「所有」されることを危惧し

「守ろう」としながら

逆に「合法的」に

カネで買われてしまう選択肢を生む

悲劇的な結末を招く悪法になりえる

と私は信じます。

 

倫理にも論理にも欠けると

世界中で批判を浴びるトランプ政権に寄り添う日本には

欧米コングロマリットによる

合法的経済植民地化の流れを止める事はできないでしょう。

 

トランプ政権移行期に

消費者がトランプ製品を扱う

売店をポイコットする不買運動が起こりました。

 

株価にも影響を及ぼすインパクトを

消費者はまだ持っています。

 

購買力は政治力です。

 

今、日本人が

邪悪なモンサントが開発しバイエルが売る

ラウンドアップを使わないで作った野菜や米しか買わない

という声を上げ

農家の方々がそれに応じなければ

日本も

実質的には欧米の経済的植民地支配に屈する

南米の二の舞だと私は思います。

 

アメリカの種子法の問題は、

邪悪なモンサントだけにカネが集まる

という単純なモノではありません。

モンサントに投資する証券、銀行、

更には、安価な小麦でジャンクを売るマクドナルドや

ネスレナビスコ(…も身売りしてモンデリーズになってる)への

富の集中の一端をも担っています。

 

欧米でのGM種は

作物の味よりも

農産物を育てやすくし

流通に耐え、長持ちさせるための改良でもあります。

 

アメリカの果物野菜は

やたら固くていつまでもキレイですが

中から腐り

いつのまにか冷蔵庫の中で溶けます(実体験。

 

その昔

オレンジの輸入が解禁になった時

アメリカからの輸出用オレンジは

どうせ日本人が食べるからと

発がん性のあるワックスや防腐剤をガンガン使っている。

という噂が流れました。

 

日本人が食べるから、発ガン性物質漬けなのではありません。

 

サンキストやデルモンテ等のメガ農産物ブランドは

商品が長持ちすればする程利益が安定する為

安全性や鮮度などクソくらえな

果物や野菜を

無頓着でポジティブな

アメリカンにガンガン提供しています。

 

アメリカに

新鮮な果物野菜などありません。

 

野菜や果物が日本のモノよりも

はるかに長持ちする印象です。

オランダや、南米から輸送され

食卓に並ぶまで、何日かかるのかわかりませんが

ピンピンしています。

冷蔵庫で1週間とか、平気でもってます。

下手すると

ブロッコリーがひと月以上もちます(突然溶けましたが…

 

トランプ政権に移行してから、

傷みやすかったベリーが全然腐らなくなりました。

アメリカでは

収穫後(ポストハーベスト)に使う

防腐剤、防カビ剤の規制も

ググってみても

さっぱり上がってきません。

 

みかんの袋に

「よく洗ってから、食べること」

みたいな但し書きがついています(怖い。

 

見かけはきれいなのに

かび臭く

中心から腐っている野菜や果物も

増えたように感じます。

 

とても怖いです。

 

長持ちするということは

廃棄しなければならない可能性が減るということです。

 

古いモノでも見かけがきれいなら

いつまでも売れますからね。

 

このままでは

きっと、見かけはきれいでも、

カビ臭い野菜や果物が

日本のスーパーや、コンビニにも並ぶことでしょう。

 

国民の健康と安全を守るハズの政府は、

大企業の利益を守ることを優先し、

機能不全に陥っています。

 

資本主義と民主主義は両立しないことを

アメリカの現状は如実に表しています。

 

消費者が目先の損得や

(いつまでも腐らない食べ物の)利便に惑わされず、

生産者に適正な価格を支払うことを念頭にモノを買えば、

NASAのレポートにもある

やっぱり人類は滅亡することがNASA出資の調査で判明。資源浪費と貧富二極化で | ギズモード・ジャパン

世界文明の破滅の2大要因

貧富の格差と資源の枯渇に

歯止めを掛けることもできるのではないでしょうか。

 

ちなみに

モンサント社は、

ベトナム戦争で使われた枯れ葉剤を作ってボロ儲けした会社が前身となっており

欧米では死神の企業と呼ばれていましたが

チクロン作ったバイエルに買われるってエゲつないな

 

このモンサントの汚名を捨てて

利権だけはガッツリ掴んで

身売りするアメリカン のやり方は

製薬業界でも

ロシュにタミフルの汚名を着せて

自分は利権でボロ儲けする

ギリアドのやり方を彷彿とさせますね。

 

neofreudian.hatenablog.com

 

 

消費者が一致団結して

「少し不便でも買わない。」

「少し高価でも生産者に還元する」

と決断しない限り、環境汚染も貧富の差も進むばかりでしょう。

 

モンサントについては、この記事でもちょっと触れました。

カネはリビドーの象徴? - 精神分析のススメ

 

欲望の充足と富の再分配の文脈で、精神分析のススメもしてみました。

世界文明 と 欲動の鬱憤 - 精神分析のススメ

 

Manu Chao 好みな私です。最近、お年を召されたなーと、感じますが、この

モンサント反対の歌

Te lo digo te lo canto! Fuera Monsanto! サイコー。

www.youtube.com

 

*1:ベトナム戦争枯葉剤を開発した

モンサント

世界中でラウンドアップの発がん性が問題視され

集団訴訟が勃発する前夜

第二次大戦でチクロンを開発した

ドイツのバイエルに身売りして

華麗な変身を遂げましたが…

https://www.afpbb.com/articles/-/3186001?page=3

【資生堂のダルちゃん】好きなモノ 追記

前回の記事

【資生堂のダルちゃん】好きなモノ - 精神分析のススメ

の締めで、12話ではサトウさんが「悪い」母親から「良い」母親に移行する、と書きました。

 

ので、今日は(neofreudianがもう既にいたので、替わりに私のツイッターユーザー名にもさせて頂いた)メラニー・クラインのおっぱい理論に挑戦します。

 

人は無意識に「良い」母親と、「悪い」母親を宿す。

という概念を追求した、メラニー・クラインは、フロイトの娘、アンナと同時期にイギリスで活躍した精神分析家です。

 

本格的な子供の精神分析は、エディプスコンプレックスを克服する5歳以降でなければ無理。

という純正フロイト派の主張を覆し、従来の父子関係や男根に重点を置いた分析に加えて、母子関係、おっぱいの分析を可能にする理論を展開し、英国対象関係理論の礎となったのがクラインです。

「遊びを分析すれば良いので、言語化できない赤ちゃんの精神分析だってできる!」

と主張したかどうかは定かではありませんが(本格的に自閉の子供や赤ちゃん分析してたマーガレット・マーラーの主張かも...)アンナ・フロイトとの壮絶な女同士の戦いが繰り広げた、と言い伝えられています。

 

「悪い」おっぱい=「悪い」母 とは、どーゆーことかは、この記事の中程で、さくっと触れましたが、

発達障害のメタファー 「亜人」 - 精神分析のススメ

(無理矢理分けると)2種類あります。

 

お腹をこわすような、不味い、腐ったおっぱい=危害を加えるおっぱい

お腹がへっているのに、口の中にない、どこにもいないおっぱい=不在なおっぱい

 

「良い」おっぱい=「良い」母は、まあ、分かりますよね。

美味しい、ぬくい、お腹いっぱい、幸せ感をくれるおっぱい。

悪いおっぱいに対応させて(無理矢理)分けると、

 

危害から自分を守る、安心感を与えるおっぱい

求めたら、すぐ口に入ってきてくれる、実現するおっぱい

 

って感じですかね。不在なおっぱいは、飢餓感と攻撃衝動を、実現するおっぱいは、充足感と希求や欲望を人間にもたらしめる、とも言えましょう。

 

私の個人的見解ですが、精神分析は、欲望の彼岸に喪失感を見据えて発展した学問といえましょう。

 

クラインの理論は、

乳児のおっぱいに吸い付く至福感と、おっぱいを求め泣き叫ぶ絶望感と怒りを、根源的ファンタシー(妄想)として対比し、それを如何に統合し、人格の整合性を保ち得るか、という問題を提起したとも言えます。

 

ダルちゃんの内的世界には、コフート言語で言うと、母なるモノ(自己対象)が欠けていると言えましょうが、クライン言語で言うと、12話までのダルちゃんの内面には、批判的で「害をなす」母=「不在」な母=「悪い」母が座していた、とも言えましょう。

 

クラインの偉大さは、人の内的世界を流動的なモノと捉えた所にある、とも言われています。

人の心は、常に「良い」モノ(対象)と「悪い」モノ、そしてそれらに対峙する自己の狭間で揺れ動いている、とでも言いましょうか。

 

常に何でも与えてくれる「良い」母親と居ると、自我は甘やかされ(スポイル=甘やかす、という意味もありますが、通常「腐った」と訳します)ダメになってしまう。

迫害する「悪い」母親が居ると、理不尽な暴力を恐怖し、オノノく自我は非力ではあるものの、無害で純粋無垢な「良い」モノでもありえるのです(私は何も悪いコトしてないのに何故世界は非情なの...?ってヤツです)。

 

クラインの元々の理論では、乳児の脆弱な自我は、呼んでもこないおっぱいに対して感じる無力感や絶望感を否定する為に、「原始的な防衛」とも言われている、誇大妄想を抱く。としています。

自我の攻撃衝動が「良い」おっぱいを壊滅してしまったせいで、おっぱいはもう戻ってこない。

「どうしよう!さっきまで怒りに任せて泣き叫んでおっぱい駆逐しちゃったけど、とんでもなく『悪い』ことしちゃった!」

(と、本当に生まれたてホヤホヤの赤ちゃんが後悔するかどうかは、議論の余地がありましょうが、喩えです。根源的幻想の世界のことなので、深く追求するのは不毛です。突っ込まないで下さい。)

 

そこで、生じる「罪悪感」と「悲哀」の感情と共に、脆弱な自我は「良い」おっぱいは「悪い」おっぱいと一緒だ、という「現実」を認識し「良い」モノと「悪い」モノの「統合」に至るべく「修復」の妄想をめぐらせる、と言うのです。

 

怒りにまかせた壊滅的破壊と、壊滅した世界を俯瞰する罪悪感と悲哀の狭間で、人は「復興」という創造的活動にイソシム、という、第二次世界大戦直後の世界を反映した根源的幻想である、とも言えましょう。

 

チナミに、後に、ポストクライニアンと言われる人達は、「良い」母と「悪い」自己の統合への道のりは、「感謝」が必要である、という理論を発展させております。

 

深入りすると、どんどんややこしくなって、読者を失いそうなので(もう遅いか?)ダルちゃんとサトウさんに話を戻します。

 

12話では、「悪い」サトウさんが「良い」サトウさんに移行する瞬間、サトウさんは、「さびしいときに読む」詩集を読んでいる。

というのが、「くぅー、ヤルなあ!」です。

 

ダルちゃんは批判的な「悪い」サトウさんを拒絶することで、偽りの「全能感」に浸ります。

が、スギタさんに拒絶反応を抱き、サトウさんが「正しい」ことを思い知ります。

 

ダルちゃんがダルダル星人に戻れる屋上で、さみしい二人が出会います。

 

サトウさんはダルちゃんには干渉せず、座って本を読み始めます。そんなサトウさんに、ダルちゃんは自分から話しかけます。(受け身じゃないトコロがポイントですね)

 

「なんですか。それ。」(あなたのことが知りたい)

 

サトウさんは顔を上げず、

「さびしいときに読むの」(私は寂しい)

 

「じゃあ、読みたいです」(私も寂しい)

 

サトウさんは微笑んで、布ばりの詩集を差し出します。

 

ダルちゃんは、独りでサトウさんに借りた本を読み、「わけがわからない」けど、「さびしくてやさしい」と感じます。

 

母なるモノは時に「ワケがわからない」し、「さびしい」気持ちにさせられる。けれども「やさしい」。

 

詩集が布ばりなのも、ラブドールの記事

拒絶しあう男女 ラブドールとセックスレス - 精神分析のススメ

で紹介した、愛着理論の針金と布の代理母を思い起こします。

 

近しくなりたくても、傍に寄り過ぎるのはコワい、現代の若い人達の葛藤に訴えかける描写が切なく、胸に詰まります。

【資生堂のダルちゃん】好きなモノ

「ダルちゃん」第12話 | ダルちゃん | 花椿 HANATSUBAKI | 資生堂

 

ダルちゃん12話、読みました。

 

両手を挙げて降参です。

 

他人の心に訴えかけることのできる物語を紡げる人達というのは、精神医学や心理学で武装し、傷つき、病んでいる人の心を「癒そう」とするヤカラよりも、ずっとか「人の心」の機微をワカっておられるものなのだ、ということを思い知らされる描写力。

ヤラレました。

 

11話で、サトウさんからは、ダルちゃんに話しかけない、というのにもヤルなあ、と思っていましたが。

 

全くカンケーないかもしれませんが、ヴィゴッツキー(教育心理学とかではきっと名前がしられていそうなピアジェに並ぶ、ロシアの天才心理学者)のゾーン・オブ・プロクシマル・ディヴェロップメント(発達近範疇...とかかな?)という概念を思い起こすエピソードです。

 

ヴィゴッツキーは、37歳で早世する直前に、自己中心的言語の問題への取り組みとして書かれた、「思考と言語」という著書で有名です。

言語が、意思伝達(コミュニケーション)の為に発達したのだとすれば、子供の自己中心的な言語が大人になっても継続するのは何故か(それどころか、年とるにつれてどんどん酷くなる...)。

という、流石は、誰も話を聞かず、自分の言いたい事を大声で話すだけ、という印象のある饒舌なユダヤ人家庭で育った人の発想です。

そんな自己中心的な自我が、周囲に興味関心を持ち、新しい物事に取り組もうとする時には、自分の「可能性の範疇」にはあるものの、「ちょっと足りない」「ちょっと難しい」という課題が必要である。という考えが、ゾーン(範疇)です。

 

可能性の範疇に留まっている時間が長引くと、退屈です。

可能性の範疇から離れすぎるのは、不安です。やる気スイッチも入らないし、フラストレーションの原因にもなります。

 

屋上のサトウさんは、ダルチャンのゾーン(範疇)に入ってきた、やる気スイッチです。

 

押し付けられるのは、イヤだけど、イヤと言えない自分に自己嫌悪を感じているダルちゃんが「自分」を取り戻すには、(父親的機能とされる)建設的に「イヤ」と自己主張する以前に、それとなくゾーンに入り、

「欲しかったら上げるけど...」

的に、ダルちゃんの「好き」とか、「欲しい」とか、「知りたい」を優しく刺激してくれる誰かが必要だったのです。

 

4話では、一生懸命「頑張って」擬態しているダルちゃん。

そんな必死なダルちゃんに自分の良しとする(女性としての?)あり方を「勝手に押し付け」、「頑張る」ダルちゃんを「否定」する、邪魔で「悪い」母親的存在だったサトウさんが、12話では、ダルちゃんの世界の扉をそっと開けてくれる、「良い」母親に移行する瞬間が繊細なタッチで描かれていて、心が温まりました。

 

追記

32話のヒロセさん…

もろ、ダルちゃんの「好き」を受容し反映する母性に溢れまくっていて…

女(母)を魅惑する、理想の男(父)は、日本人の源風景には存在しないのでしょうか…

 

続きも書きました。

人は「良い」母と「悪い」母を根源的幻想に宿す、というメラニー・クラインのおっぱい理論について、ダルダルな私が気合い入れて書いてみました。

【資生堂のダルちゃん】好きなモノ 追記 - 精神分析のススメ

【自己愛】の彼岸:はあちゅう氏のセクハラ告発 

はあちゅう氏のセクハラ告発で

ツイッターがスゴいことになってます。

全部は到底フォローできないので、

どの様に論点がズレて行っているのかも

よく分かって居ませんが...

セクハラもレイプも、

女性対男性の力の差、

という部分に焦点が当たりがちですが、

私はコミュニケーションの崩壊

特に、「no」と言えなくなること

大きな要因だと思っています。

 

最初にお断りしておきますが

はあちゅう氏が自己愛性パーソナリティ障害

というお話では御座いません*1

 

この記事でも触れましたが、

性器なんか切ったって、性犯罪をするやつは犯す - 精神分析のススメ

性交に至る「同意」は

言葉でなされ得るモノではありません。

求め、求められる実感を通じて

綿々となされるモノです。

 

だから

 

最初は「良く」ても

途中で「やっぱ、ムリ」が、

男女の別なく

あるのが当然です。

 

友人の言葉ですが…

 

「男が力づくで女をレイプするなんて、

考えられない。

女性器が濡れてなけりゃ

男のティンだって痛いし、萎える」

 

アフリカ出身の彼は、

目の前で家族を惨殺され、

兵士になることを強要された

天涯孤独な若者達が

割れた瓶を女性の一番柔らかな部分に

突っ込んだりする

ハイパー暴力レイプが

近隣の国々で盛んに行われていることを

ガン無視しておりましたが…

 

戦時下でもない限り、

そこまでの暴力が「普通」に

行われたりはしません。

 

純真無垢(?)な彼の

「女が不快なら男だって不快」

 という確信は

「男が快楽を得るなら女も快楽を得ているはず」

という自己中心性を露呈するものでもあり…

 

「勃っているのだから

セックス『したい』ハズ」

という

女性が男性をレイプする

可能性を「否定」するものにも

繋がります

 

自我が自他の別を見失い

一体「誰が」「ナニを」欲しているのかが

「混乱」したり

「不快」と「快楽」が「混同」する

欲動の「倒錯」が

レイプの病理である

 

という事実を明るみに出すモノでもありましょう

 

自分の痛みを感受できない人は、

他者の痛みにも鈍感にならざるを得ない。

ということでもあります。

 

セクハラもレイプも、

最初は「良く」ても

「やっぱ、ムリ」

が受け入れられない、

「No」と言えない関係性が問題です

 

「No」が言えない関係性

=自他の区別がない

=分離不全の関係

とも言えましょう。

 

分離不全の病といえば、パーソナリティ障害です。

以下、パーソナリティ障害については、

wikiからの引用となります。

パーソナリティ障害 - Wikipedia

パーソナリティ障害と一口にいっても、

A群奇異型、C群不安型、等、

様々なタイプに分けられますが、

今回は、パワハラ、セクハラに焦点を当てて、

「ストレスに弱く、他人を巻き込む」

B群の自己愛性に

はあちゅう氏の描かれる岸勇希像が

どの様に当てはまるか

パワハラや、セクハラを

如何に自己愛性の「症状」と診なす事ができるか

について、書いてみます。

 

再度のお断りですが、

私は岸氏のことを全く存じ上げませんし、

読んだ文章も、noteの謝罪文とその前後の数記事だけです。

あくまで、はあちゅう氏の描写における岸勇希」の考察です。

 

リアル岸氏が自己愛性パーソナリティ障害である

という主旨ではありません。

 

専門医でもないトーシローが著名人に

無闇やたらと診断を下す事について、

懸念される良識深い方々は、

是非ともこちらを御参照ください。

免責事項 自己紹介に換えて - 精神分析のススメ

 

以下、引用はバズフィードの記事からです。

はあちゅうが著名クリエイターのセクハラとパワハラを証言 岸氏「謝罪します」

 

「深夜に『俺の家にこれから来い』と...

突然電話がかかってきて、

どこで何をしていようと、

寝ていても『今から来られないのか』と言われました。

『寝ていました』と言うと、

行かないでも許してくれることもありましたが、

翌日、『お前はこの会社には向いていない。

CDC(岸氏が所属していた部署)にきたら

深夜対応も当たり前だぞ』と言われました」

 

自己愛性の病は、孤独の病とも言えましょう。

下の記事でも触れた様に、

【資生堂のダルちゃん】 母親に否定されるということ - 精神分析のススメ

【資生堂のダルちゃん】 擬態 と 自己愛の欠如 - 精神分析のススメ

コフートの言う「自己愛」が欠如し、

「他者に賞賛を求め、自分が特別であろうと」する

彼等はウィニコットの言う「本当の自分」

が認証され「愛されている」

という実感なく生きてきました。

 

ともすると

傲慢な彼等は

表面的には自信に満ち溢れ、

多くの人の目には魅力的に映ることも

ままあります。

しかし

彼等はいくら周りに人が集まろうとも、

「誰も本当の自分の素晴らしさを分かっていない」

と、孤独感に苛まれます。

 

自己愛性な彼等は、寂しがりやです。

 

孤独感に耐えきれず、

見捨てられることに恐怖するあまり、

他者を自分につなぎ止める為に

威圧的、操作的(マニピュラティブ)な行動に出ます。

 

夜を共に過ごす事はムリ、

と断られた翌日に、

「深夜対応も当たり前」と、

「当たり前」のことを拒否した

はあちゅう氏をやんわり責める

というのは

次回は「no」と言えなくさせる

威圧的で操作的な行為

と言えるでしょう。

 

「自宅にいくと、黙って正座をさせられて、

彼が作業をしているのを延々と横で見させられるか、

彼の仕事の功績を聞いて、

それを褒め続けたり、

岸氏の嫌っている人を一緒にけなすなど

させられたりしました」

 

自己愛性の人々は、

他者に自分とは異なる、別人格を

認めることができません。

 

招いておいて、もてなすわけでもなく、

自慢話ばかりする。

 

自分の嫌いなモノを嫌悪し、

好きなモノを褒めちぎる事を強いる。

 

自他の区別がつかない彼等の特徴です。

 

相手を自分のモノと看做す彼等に

自分の意見を率直に述べる事は危険です。

意見の相違を

「他人には自分とは異なる意見がある」

と素直に受け入れられず

自分自身の人格を否定されたかの様に感じる為、

理不尽な激昂を招く可能性があるからです。

 

「岸氏は私の友人と付き合っていたのですが、

『こうやってこの時間にお前が俺の家にいることを

言ったらどう思うかな。

お前が誘ってきたことにもできるからな』

などと言われました」

 

深夜に女性を自宅に招く事の不自然さを

どこかで感じておられたのでしょう。

交際相手の彼女にバレた時には、

「自分が悪くない」

という言い訳がちゃんと出来る事を

確認しておきたい。

という気持ちに加えて、

彼女に捨てられるのはコワイので、

はあちゅう氏がいらない事を言わない様に口止めしておく。

これも、又、「操作的」な行為です。

 

「『俺に気に入られる絶好のチャンスなのに

体も使えないわけ?

その程度の覚悟でうちの会社入ったの?

お前にそれだけの特技あるの?

お前の特技が何か言ってみろ』

と性的な関係を要求されました。」

 

これが、性的関係の要求かどうかというと、

まあ...微妙なトコロだとは思うのですが。

 

こんなに素晴らしい、

パワフルなオレ様に色目も使えないとは、

けしからん!

 

と、受け取れますが

...

本気ですかね?

ウケ狙っている様にも聞こえるのですが...

 

「特技は?」と詰め寄る所は、

パワハラモラハラ入っていますかねー。

ここも、微妙なトコロだと思います。

冗談のつもりでそーゆー事言う人、いますよね。

それが、皆、自己愛でハラスメントをしているか、

というと、究極的には、その言葉を受け止める側が、

「そーゆーことを冗談でも言われるのは不愉快

という意思表示をして、

ちゃんと聞き入れてもらえるのかどうか

という部分に掛かって来ると思います。

 

只、その後の、

「お前みたいな顔も体もタイプじゃない。

胸がない、色気がない。

俺のつきあってきた女に比べると、

お前の顔面は著しく劣っているが、

俺に気に入れられているだけで幸運だと思え」

 

これが、性的関係を強要する

セクハラかどうかは微妙なものの、

「胸」や「顔」に女性としての魅力がない、

という卑下の仕方は

「は?お前に言われる筋はないやろ?」

という、パワハラであることは明確です。

岸氏自身、「友達の様に」思っていた、

と言っているし

「タイプじゃない」という意思表示は

「深夜に呼出したりしたけど、襲ったりしないよ」

と…

はあちゅう氏に安心感を与えたいが故の言葉とも

受け取れます。

が…

「劣ってる」と相手を卑下した上で、

「俺に愛されて幸運だと思え」

というのは、はあちゅう氏に

「お前にそんなこと言われる筋はない」

とは言わせない

イビツな関係性を既に構築した上で、

相手を自分に繋ぎ止めておく為の

「操作的」なパワハラ行為です。

 

「岸氏からのハラスメントから

逃れたいと思ったはあちゅうさんは、

岸氏の要求通り数名の友人を紹介した。」

 

これについては、物議を醸している様ですが、

「仕方ないじゃーん」

と、私はゆるーく思います。

「こんなに独りで居られないウザい人なんだから、

もっと他に時間を共にできる人が出来たら

自分の事は放っておいてくれるかもしれない。

友達だって、岸さんと仲良く収まってくれたら一石二鳥!」

と、思ったトコロで彼女に罪はないのでは。

はあちゅう氏も、

以下の記事に書かれている様に、

出会った当初は岸氏のことを先生と呼び、

(混乱はあれども)敬愛もしていたのですから、

はあちゅう 公式ブログ - 劇的クリエイティブ講座とか岸さんのこととか。 - Powered by LINE

純粋に自分の利益の為に、

パワハラクソ野郎に友達を売ったというのは、

一面的な見方ではないでしょうか。

 

はあちゅう氏の置かれた状況ではムリでも、

異なる環境で、別の人とならば、

岸氏が相手の「嫌」なら「嫌」を

(いくら不本意でも)

受け入れざるを得ない関係を作る

可能性は常にあるのです。

はあちゅう氏がご友人に岸氏を紹介する時点で、

岸氏に「No」と言えないように

ご友人を「操作」したのであれば、

彼女にも罪はありましょうが、

それは、彼女の友人関係が歪んでいた、

ということで、

彼女が職権を乱用したわけではありません。

ご友人がはあちゅうさんの「友達」ではなく

「部下」だったら話は別ですが、

ハラスメントの文脈で外部の人間が

断罪するのは全くのオカド違いでしょう。

 

パワハラや、セクハラをする人が、

全て、誰彼構わず、言葉の暴力や、性的暴力を振るう

クズカス野郎ではありません。

 

自己愛の病と同じく、

ハラスメントも関係性の歪みが問題なので、

「してはいけない、言ってはイケナイことリスト」

を作って、個人を「悪者」にして裁くだけでは、

ハラスメントの問題は決して解決しないでしょう。

 

個人間の問題のみならず、

そのような歪んだ「愛情」や、

関係を「当たり前」と容認し続ける組織の問題

ひいてはその様な歪んだ組織を容認する社会全体の問題

とも言えるのです。(システム理論と言うヤツです。)

 

はあちゅうさんも言っておられる様に、

セクハラ危険語彙、行為が

セクハラになるかどうかは、

「誰が」「どのように」言い、行うか、

という文脈によって変わるものです。

 

そして、それは自分の言った「否」が相手からの暴力や、拒絶に繋がらず、

率直に受け入れられる関係性かどうか、

という部分に掛かってくるのです。

 

はあちゅう氏が離れた後の、

岸氏の激昂と怨恨は、

置いてけぼりにされる=愛されない

ことを恐れ、怒る、究極的に寂しがりやな

自己愛性の特徴と言えましょう。

 

この記事にも書きましたが、

思いやりのない困ったちゃんを育てる親 - 精神分析のススメ

子供が親から分離したモノであることを受け入れられない、

自己愛性な親は、

自己愛に欠け、倫理観や、思いやりのない

利己的な子供達を育てます。

 

というワケで、

親子関係で分離が出来なかった人達は、

相手の人格を尊重せず、自分のモノとして扱う、

ハラスメントな関係性にハマり易いのは自明の理、

とお分かり頂けたでしょうか。

 

ブコメで、岸氏だったか、

はあちゅう氏だったかの謝罪は

自己弁明に過ぎない。

本当に謝る気持ちがあれば「ごめんなさい」で止めとけ、

というのがありましたが、

そこで止まるのは問題だと思います。

 

「ごめんなさい」

しか聞きたくない時期、

というのは、傷が深ければ深い程長続きしますが、

お互いの言い分を受け入れ合う、

というのが真の謝罪、

そして、赦しの意味ではないですか?

 

そういう意味では、

岸氏の謝罪は、

彼自身の不全を乗り越えようとする、

至極全うなモノだった

と、私は感じます。

 

本格的に自己愛ガッツリな人は、

相手の痛みを否定し、自己正当化することしかできず、

「オレ様が絶対正しい!オレ様を非難するとは何事だ!

『ごめんなさい』なんて、死んでも言うものか!

お前の方こそ、オレ様の権威を失墜させたのだから、謝れ!」

とばかりに、逆ギレするか*2

「オレ様はもうダメだ」

と、自殺するのがオチです。

*1:ご入籍ご出産もされて

大変おめでたいことですが

私的には

5年以内にお二人共カミングアウトする

に1票入れておきたいトコロです

なんちて(妄想です

本気にしないで下さい

*2:はあちゅう氏のちょっと前に

話題になっていたレイプ告発案件の加害者が

正にそんな感じです。

自己愛性にはカリスマ的な人気者も

たまに居ますが

彼は…なんとも…まあ…貧相で

「お前本当にチンついてるか?」

って感じですね