精神分析のススメ

1970年代のNYCで一世を風靡したヒップな精神分析の啓蒙をめざす狂気専門家のブログです。

【資生堂のダルちゃん】好きなモノ 追記

前回の記事

【資生堂のダルちゃん】好きなモノ - 精神分析のススメ

の締めで、12話ではサトウさんが「悪い」母親から「良い」母親に移行する、と書きました。

 

ので、今日は(neofreudianがもう既にいたので、替わりに私のツイッターユーザー名にもさせて頂いた)メラニー・クラインのおっぱい理論に挑戦します。

 

人は無意識に「良い」母親と、「悪い」母親を宿す。

という概念を追求した、メラニー・クラインは、フロイトの娘、アンナと同時期にイギリスで活躍した精神分析家です。

 

本格的な子供の精神分析は、エディプスコンプレックスを克服する5歳以降でなければ無理。

という純正フロイト派の主張を覆し、従来の父子関係や男根に重点を置いた分析に加えて、母子関係、おっぱいの分析を可能にする理論を展開し、英国対象関係理論の礎となったのがクラインです。

「遊びを分析すれば良いので、言語化できない赤ちゃんの精神分析だってできる!」

と主張したかどうかは定かではありませんが(本格的に自閉の子供や赤ちゃん分析してたマーガレット・マーラーの主張かも...)アンナ・フロイトとの壮絶な女同士の戦いが繰り広げた、と言い伝えられています。

 

「悪い」おっぱい=「悪い」母 とは、どーゆーことかは、この記事の中程で、さくっと触れましたが、

発達障害のメタファー 「亜人」 - 精神分析のススメ

(無理矢理分けると)2種類あります。

 

お腹をこわすような、不味い、腐ったおっぱい=危害を加えるおっぱい

お腹がへっているのに、口の中にない、どこにもいないおっぱい=不在なおっぱい

 

「良い」おっぱい=「良い」母は、まあ、分かりますよね。

美味しい、ぬくい、お腹いっぱい、幸せ感をくれるおっぱい。

悪いおっぱいに対応させて(無理矢理)分けると、

 

危害から自分を守る、安心感を与えるおっぱい

求めたら、すぐ口に入ってきてくれる、実現するおっぱい

 

って感じですかね。不在なおっぱいは、飢餓感と攻撃衝動を、実現するおっぱいは、充足感と希求や欲望を人間にもたらしめる、とも言えましょう。

 

私の個人的見解ですが、精神分析は、欲望の彼岸に喪失感を見据えて発展した学問といえましょう。

 

クラインの理論は、

乳児のおっぱいに吸い付く至福感と、おっぱいを求め泣き叫ぶ絶望感と怒りを、根源的ファンタシー(妄想)として対比し、それを如何に統合し、人格の整合性を保ち得るか、という問題を提起したとも言えます。

 

ダルちゃんの内的世界には、コフート言語で言うと、母なるモノ(自己対象)が欠けていると言えましょうが、クライン言語で言うと、12話までのダルちゃんの内面には、批判的で「害をなす」母=「不在」な母=「悪い」母が座していた、とも言えましょう。

 

クラインの偉大さは、人の内的世界を流動的なモノと捉えた所にある、とも言われています。

人の心は、常に「良い」モノ(対象)と「悪い」モノ、そしてそれらに対峙する自己の狭間で揺れ動いている、とでも言いましょうか。

 

常に何でも与えてくれる「良い」母親と居ると、自我は甘やかされ(スポイル=甘やかす、という意味もありますが、通常「腐った」と訳します)ダメになってしまう。

迫害する「悪い」母親が居ると、理不尽な暴力を恐怖し、オノノく自我は非力ではあるものの、無害で純粋無垢な「良い」モノでもありえるのです(私は何も悪いコトしてないのに何故世界は非情なの...?ってヤツです)。

 

クラインの元々の理論では、乳児の脆弱な自我は、呼んでもこないおっぱいに対して感じる無力感や絶望感を否定する為に、「原始的な防衛」とも言われている、誇大妄想を抱く。としています。

自我の攻撃衝動が「良い」おっぱいを壊滅してしまったせいで、おっぱいはもう戻ってこない。

「どうしよう!さっきまで怒りに任せて泣き叫んでおっぱい駆逐しちゃったけど、とんでもなく『悪い』ことしちゃった!」

(と、本当に生まれたてホヤホヤの赤ちゃんが後悔するかどうかは、議論の余地がありましょうが、喩えです。根源的幻想の世界のことなので、深く追求するのは不毛です。突っ込まないで下さい。)

 

そこで、生じる「罪悪感」と「悲哀」の感情と共に、脆弱な自我は「良い」おっぱいは「悪い」おっぱいと一緒だ、という「現実」を認識し「良い」モノと「悪い」モノの「統合」に至るべく「修復」の妄想をめぐらせる、と言うのです。

 

怒りにまかせた壊滅的破壊と、壊滅した世界を俯瞰する罪悪感と悲哀の狭間で、人は「復興」という創造的活動にイソシム、という、第二次世界大戦直後の世界を反映した根源的幻想である、とも言えましょう。

 

チナミに、後に、ポストクライニアンと言われる人達は、「良い」母と「悪い」自己の統合への道のりは、「感謝」が必要である、という理論を発展させております。

 

深入りすると、どんどんややこしくなって、読者を失いそうなので(もう遅いか?)ダルちゃんとサトウさんに話を戻します。

 

12話では、「悪い」サトウさんが「良い」サトウさんに移行する瞬間、サトウさんは、「さびしいときに読む」詩集を読んでいる。

というのが、「くぅー、ヤルなあ!」です。

 

ダルちゃんは批判的な「悪い」サトウさんを拒絶することで、偽りの「全能感」に浸ります。

が、スギタさんに拒絶反応を抱き、サトウさんが「正しい」ことを思い知ります。

 

ダルちゃんがダルダル星人に戻れる屋上で、さみしい二人が出会います。

 

サトウさんはダルちゃんには干渉せず、座って本を読み始めます。そんなサトウさんに、ダルちゃんは自分から話しかけます。(受け身じゃないトコロがポイントですね)

 

「なんですか。それ。」(あなたのことが知りたい)

 

サトウさんは顔を上げず、

「さびしいときに読むの」(私は寂しい)

 

「じゃあ、読みたいです」(私も寂しい)

 

サトウさんは微笑んで、布ばりの詩集を差し出します。

 

ダルちゃんは、独りでサトウさんに借りた本を読み、「わけがわからない」けど、「さびしくてやさしい」と感じます。

 

母なるモノは時に「ワケがわからない」し、「さびしい」気持ちにさせられる。けれども「やさしい」。

 

詩集が布ばりなのも、ラブドールの記事

拒絶しあう男女 ラブドールとセックスレス - 精神分析のススメ

で紹介した、愛着理論の針金と布の代理母を思い起こします。

 

近しくなりたくても、傍に寄り過ぎるのはコワい、現代の若い人達の葛藤に訴えかける描写が切なく、胸に詰まります。