世界文明 と 欲動の鬱憤
今朝、ラジオを聴いていたら「文明への不満」というフロイトの論文タイトルを連想する出来事がありました。
4人でくだらないトークをする典型的アメリカンの朝ラジオ番組の、パーソナリティの一人、インド出身のガンディーさんが、インドに里帰りしたは良いけれど、空港で足止めを食らって帰って来れなくなった、という話をしておりました。
印カースト最下層出身者ら、ヒンズー至上主義に抗議デモ 写真4枚 国際ニュース:AFPBB News
この事件に巻き込まれて、12時間ムンバイのホテルから出られなくて、落ち着いた隙をぬってバスで空港へ向かおうとしたら、暴動で道路が封鎖されているため、空港にやっとこさ辿り着いたものの飛行機に乗り遅れた、という話を電話でされていました。
ガンディーさん曰く、
「バスに乗っていたら、石を投げられた」
そうで、それに対して、スタジオの相棒が、
「観光客が何したっていうのさ。何で石投げて来るんだ」
ってな質問をしたのに、ガンディーさんが
「200年前にあった(イギリスの支援を受けた)不可触民対(ヒンズーの)上流階級の武士の戦いが理由」
という、まあ、ワケの分かる様な、分からん様な応答をし、それに対して、スタジオのアホ気な相棒が、
「そんな大昔のことを根に持って暴動が起こったりするから、俺はインドなんか絶対行かないよ。休暇はメキシコのビーチでリゾートしに行くのが一番」
みたいなコト言ってて...
聴いてた私は、
「ダメだこりゃ。こいつら、911があったのに、ナンも学んでないわあー」
と絶望してしまったワケです。
滅茶苦茶単純にすると、インドの暴動も911も、「持てる者達」に対する「持てない者達」の鬱憤が爆発したテロ事件、と言えましょう。
「持てない者」が暴力に訴えることが「仕方ない」とは決して思えません。
が、911事件で、アメリカンの
「何の罪もない人達が、邪悪なイスラム教徒のせいで沢山死んだ」
という見方は
「ちょっと違うやろ」
と思ってしまいます。
ニューヨークの世界貿易ビル(日本語にしてみると、つくづく思いますが、エゲツナイ名前ですねー)は所謂後進国といわれる国々の安価な労働力や資源を搾取して儲けたカネを更に転がして増やす、貧富の格差をガンガン拡げる資本主義の歪みの象徴でもありましょう。
(しかも、アノ崩れ落ち方、どー見ても飛行機が燃えて熱くなったからって不自然すぎ。民間人は入れない基地のど真ん中で飛行機が落ちたアレも、ごく普通に考えたら、あんたらが撃ち落としたに決まっとるやんけ!って思うんですけどね。自己欺瞞の闇は底しれない)
フロイトの理論には、
人間は「欲しい」という「欲動」に突き動かされて生きている。
という大前提があります。
「欲動」を規制するモノには、自分の肉体的限界や確固たる自然の驚異に加えて、文化や集団社会がある。
文明発展の為には個人の利己的な「欲動」の暴走を制限し、歯止めをかけることが必要なので、文明は常に自我の不満のタネである。
というのが彼の「文明への不満」の出発点でもあります。
全ての欲求を満足させると罰せられる為、
「幸福」=「欲動の充足」
になり得ず、葛藤が生まれる。
というのですが、まあ、フロイト的には欲求充足の原型が、
父を殺して母を娶る
なので、欲求充足したら罰せられるのも当然で...
悲劇的なフロイトは、
「幸福」=「欲動の妥協」
コースで落ち着いたようです。
が。
私的には、
利己的な欲動は、「充ち足りる」ということを知らない。
のみならず、他者をないがしろにしがちなので、罪悪感をどーにかせんならん。
ということに尽きるのではないかと思います。
だから、(フロイトもホノメカしていますが)「愛する」ことを、自分が傷ついたり、損したりするのではないか、という不安や、恐怖抜きで思いっきりできるようになれば、万々歳なのではないでしょうか。
「文明への不満」は、利己的にカネ儲けの欲動に突き動かされ、無自覚に貧富の格差に貢献し、世界文明の終焉に拍車をかける現代人の鬱憤とも言えましょう。
過剰消費に歯止めをかける、「充足」は如何に得られるのか。
「持てない者達」の鬱憤は如何に暴発を避けられるのか。
如何に人は、必要ないモノは潔く諦め、欲しいモノを惜しみなく愛することができるのか。
(そして、ガンディーさんは、無事アメリカにたどり着いたのでしょうか。
インド並みに貧富の差が激しく政情不安定なメキシコでリゾートしたい、アホンだれな同僚と仲良く朝のラジオ番組に戻れるのでしょうか。
気になります。
が。)
(今の所)平和な日本にお住まいの皆様には、日々の充足を得、世界の平穏を守る為に、精神分析などは、如何でしょうか?
欲望の暴走(過剰消費)と乖離(貧富の格差)に折り合いをつける為にも。