精神分析のススメ

しがないメンヘル職人です。70年代のNYCで一世を風靡したヒップな精神分析の啓蒙をめざしております。

【いおりとちはる】 双子の愛の物語

こだまさんの「夫のちんぽがはいらない」を漫画化した

ゴトウユキコさんの短編を読みました。

 

http://leedcafe.com/webcomic/exmanga031/

 

久しぶりに「なるほど!」

と感じるタイト(綿密な)お話に

感動したので書いてみます。

 

ネタバレバレ…かな?

読んでからじゃないと

本記事ワケ分からないと思います。*1

 

花村萬月氏も云うように

http://renzaburo.jp/shinkan_list/temaemiso/160826_book02_2.html

虚構には「偶然」が許されません。

「世界観」が必要なのです。

 

その「世界観」に「整合性」があるとは

榛名檸檬さんの「ダルちゃん」にも

感じていましたが…

 

neofreudian.hatenablog.com

 

榛名氏は

「ママ化した父」への「失望」を

「ダルちゃん」で描きましたが

ゴトウ氏は

「無邪気でヌケてる父」への失望を

描いていると感じます。

 

不倫な関係にハマる女性は

「誰かのオトコ」に恋をするが故

 

エディプス葛藤の原点となる

 

ママは自分のモノではなく

パパのモノなのだ

 

という「智慧」のトラウマを克服できないモノである

 

というのが精神分析学における定石です。

 

主人公のいおりは

親ほども歳の違うオトコに恋をします。

 

彼には愛する妻と仲の良い娘がいますが

いおりには「関係ありません。」

 

英国対象関係論という

精神分析学派の原点でもある

おっぱい理論を提唱した

クライン女史曰く:

 

生後からエデイパス期(5歳前後)

以前の幼児の内的世界には

愛するチチ(乳及び父)と自分

の「二者関係」しか存在しません。

 

フロイト教授は

人間の神経症的葛藤の原点

として「父」のてぃん

に注目しましたが

彼の論を更に深めようとした

クライン女史は

人格形成の中核に

「母」のおっぱい

を見出しました。

 

 

フロイト教授が提唱した

エデイパス期(男児)の葛藤も

チチへの愛憎ですが

チチはチチでも乳ではなく

自分とおっぱいの間に介在する

「第三者」=「父」=「男根」

への愛憎です。

 

フロイト教授は当初

子供=男児

としか考えていなかったので

ママと寝たいからパパを排除する

という破壊的衝動の充足が

愛する「父」を打ち負かし

「母」を手に入れる「せいこう体験」

(成功でもあり性交でもありえます)

にまつわる罪悪感となり

人の神経症的葛藤の原点になる

と云いました

 

が…

 

私的にはエディプス葛藤の克服は

「父」を排除する罪悪感に慄く

神経症的な自我の形成ではなく

「父」への「愛」を回復し

同一化することで達成される

と考えます。

 

クライン女史の描いた

 

「良い」おっぱいと「悪い」おっぱいの統合により

おっぱい(対象)への「愛」と同一化が可能になり

自他への愛を深める

 

という生涯を通じて回帰する

愛憎のドラマが

 エディプス期において

てぃんで繰り返されるべきだ

 

と考えております。

 

全てが上手くいくと

エディプス期の終わりには

子供は愛する父母と同一化し

おっぱいもてぃんも愛する

自我を獲得し

二者関係の相手と第三者

尊重し共存する

社会性を身につけますが…

 

ここで何かが上手くイカないと

おっぱいを憎悪し

てぃんを偏愛するとか

てぃんを切り落とし

おっぱいだけを切望する

歪な自我が形成されてしまいます。

 

ここで云うおっぱいやてぃんとは

具体的な躰の部位ではなく

男女の別なく「人」が持ち合わせる

女性性とか男性性という

抽象的なモノでもあります。

 

さて

前置きが長くなりましたが

本題の「いおりとちはる」に戻ります。

 

いおりが

「誰かのオトコ」に恋をして

少しでも「一緒に居られれば幸せ」で

彼の妻や娘なんて

「全く関係ない」

と言えるのは

「母」と母に同一化するはずの「娘」

つまりは自の「女性性」への

憎悪と破壊衝動の表現である

と云えましょう。

 

「父」のオンナを奪ったエディプスが

自ら目を潰して放浪の旅に出るように…

 

「母」のオトコを誘惑し奪い取る「娘」は

醜悪な老人と交わる醜悪な自分という

「現実」を見つめようとせず

自を損ない貶めます。

 

「いおりとちはる」は私的には

「母」への憎悪と「父」への失望のなか

手に手を取り合い慰め合う

「双子」の物語だと思っています。

 

いおりの「父」は

彼女に「オレはお前のモノだ」という幻想を抱かせません。

 

いおりは

「母」と同一化できず

「父」を飢餓し自己憎悪する

不完全な「女」です。

 

いおりの恋人は

なんのキレツもない「幸せな家庭」という

自分の「理想」を無邪気に語る

子供のようなオトコです。

 

ヌケているがゆえ

ちはるに「幸せな家庭」を守ってくれる

という安心感も与えられません。

 

ちはるは

無邪気で脆弱な「母」

残酷でヌケてる「父」から守る為に

「父」にスマホの「鍵」を与えます。

 

「父親に似ている」ちはるが全てを知った上で

「父」に「男根」の象徴とされる*2

「鍵」を与えるのは示唆的だと

感じます。

 

ちはるが「母」を守り

性愛の対象に女であるいおりを選ぶのは

彼女の歪な「父」との同一化を

現していると云えましょう。

 

この物語は「父」も「母」も居ない

女児が「双子」として描かれている

と云いましたが

それは…

「自己愛」の先駆者

アメリカが誇る精神分析

コフート師匠の理論を意識しております。

 

コフート師匠は

人が自分を愛する為には

3つのモノ(対象)

 すなわち

 

① 理想となる「父」的なモノ

② 自分の欲求を汲み取り反映してくれる「母」的なモノ

③ 自分と同じ「双子」的なモノ*3

が必要だ

と言っておられます

 

いおりとちはるは

理想を打ち砕く「父」と

充足させてくれない「母」を切望する

同じモノが好きな「双子」です。

 

彼女たちが自己愛を回復し

「理想」と欲望の「充足」を

取り戻すことができる物語はあるのでしょうか…

 

と感じさせる

「整合性」と未完の物語の「不完全さ」のバランスが

絶妙な傑作だと思います。

*1:いや…

お読みになられた後でも

ワケ分からんかもしれません…

*2:因みに「鍵穴」は女性器の象徴ですが…

スマホには「穴」がない

という点でも

この物語における「母」の欠如を示唆している

とも感じます

*3:コフート師匠は

① 理想対象

② 鏡対象

③ 双子対象

と名付けてます