精神分析のススメ

1970年代のNYCで一世を風靡したヒップな精神分析の啓蒙をめざす狂気専門家のブログです。

規格外のお葬式をした

母が突然いってしまった。

 

びっくりした。

 

とはいえ、4年前にガンで胃をとっていて

夏会った時もやせ細って

しんどそうで

8月初頭から入院して

ガンが再発しているだろう

とは聞いていたのでそれなりの覚悟はできていた。

 

つもりだった。

 

が、びっくりした。

 

母は弱音を吐く人ではなかった。

 

入院直前まで

元気に(?)歩いて

運転もしてあちこち行っていた。

 

大腸が閉塞して食べられない事がネックなので

人工肛門をつけたら退院しましょう。

との事で

彼女の相方も在宅で緩和ケアする気満々だった。

 

内視鏡で30分で終わるはずの手術が

開腹で5時間近くかかったにも関わらず

術後は良好で

歩けるし食べれる

とご機嫌だった矢先に。

 

夕方電話で彼女が旅立ったとの連絡が入った。

 

そんなハズない。

 

と思うと同時に

 

ああ、来るべき時が来たのか。

 

とも思った。

 

せっかく3時間もかけて

手術したというのに

お医者さん達もさぞかし不毛な気分だろう

 

とも思った。

 

思えば私は物心ついた時から

常に

母が行ってしまう事を想定して

身構えていた。

 

母と喧嘩すると

即座に

誰をどのように頼るか

シュミレーションする子供だった。

 

学生結婚した母は

父と3歳の私を置いて

大学の後輩と出奔した。

 

2−3日で帰ってきたわよ。

と彼女は云う。

 

父曰く

2−3週間は戻ってこなかった。

らしい。

 

真実は人によって違うものだ。

 

何があったのか

私は覚えていない。

 

すったもんだのあげく

母は件の後輩と再婚し

私は母と東京で暮らすことになった。

 

若くしてできちゃった結婚した母は

東京で

やりたかったことを

思う存分やろうとした。

 

平日は

私を延長保育に預けて

工芸の専門学校に行き

週末は私を連れて

美術館や

鬱々とした欧州映画を観に

映画館に通い

都会生活を満喫した。

 

小学校に入るか入らないかのタイミングで

連れて行かれた

フランス映画3本立ての

ゴダールの5月バカのラストシーンは

今でも鮮明に覚えている。

 

米のセラピストに

そんなキワドい映画を子供の君にみせるのは

児童虐待

と云われた。

 

実際

一人でも平気になると

退屈なオトナの映画に連れて行かれても

ロビーで本を読むようになった。

 

スーパーの入口で母を待つ間

迷子に間違えられて

店内放送されたこともある。

 

昭和の緩いスタンダードでも

放置と見做された

ということだろう。

 

母は

貴方を信頼していたからこそ

何でも好き勝手にやらせた。

と云った。

 

母の知り合いには

私を甘やかしすぎだ

と忠告する人も

沢山居たらしい。

 

実際甘やかされていたと感じる。

 

彼女が私を甘やかしたのは

罪悪感からだと思う。

 

私は母の後輩が嫌いだった。

 

母の友人が

私は賢い子供だった

と感心したエピソードを聞いたことがある。

 

3歳くらいの私は

母と母の友人と後輩が居る前で

母の後輩は好きだけど

彼はお父さんではない。

みたいな事を言ったらしい。

 

幼いながらも

母の愛人に気を遣いつつ

父親とは見做していないと釘を刺す

私の言語能力に感服したそうだ。

 

私が8歳になる頃

母は後輩と離婚した。

 

父とよりを戻したかったのだろう。

 

酔っ払うと

後輩とはお墓に入りたくなかったが

父とは一緒に入りたい

と言っていた。

 

私は親に容赦なかった。

 

何故離婚なんかしたんだ

詰め寄ると父も母も

表面的には

私にはすまないことをした

と謝った。

子供には分からないことだから仕方ない

本当に何が起こっていたのか

説明しようとしなかった。

 

上述の「オトナの事情」を理解したのは

私が25歳近くになって

父母がお互いへの執着を絶ってからだ。

 

母は欲望に忠実で妥協しない人だった。

 

人恋しいからこそ

みんなに惜しみなく愛情を注いだ。

 

幼かった私を

自分の身勝手に付き合わせたからこそ

私にも好き勝手を赦した。

 

私が自由にできたのは

彼女が自由で

多くの友人に囲まれていたからだ。

 

父と決別してから

母はお墓なんて無駄だ

と言うようになった。

(両親のお墓参りには行っていたようだが)

 

埋めるよりも

海に散骨して欲しい

とも言うようになった。

 

よく知りもしない坊さんに読経されるのも

まっぴらごめん

とも言っていた。

 

母の葬式は全てが手作りで規格外だった。

 

晩年を共にした母の相方は

助手席に乗せた母を

シートベルトで固定して

病院から連れて帰ってきた。

 

葬儀屋免許(?)もなしで

そんな事できるんかい

びっくりした。

 

死亡診断書さえあれば

死体を搬送するのは

誰でも合法的にできるらしい。

 

規格に忠実な父には

逆立ちしてもできそうにない所業だ。

 

母はクーラーを効かせた自宅で

3日間を過ごした。

 

布団に寝ている母は

あたかもいびきをかきそうだった。

 

看護師さんと会話中

返事がないな、と思ったら

息を引き取っていたらしい。

 

苦しまず、コワイ思いをせず

安らかに逝けて本当に良かった。

 

木工を嗜む母の相方は

棺を自分で作るつもりだったらしい。

大工の友人が

ヒノキの良い香りがする棺を

徹夜で作ってくれた。

 

辺鄙なロケーションにも関わらず

東京から、山口から、四国から、

ひっきりなしに弔問客が訪れ

焼き場に向かう日には

棺を埋めて余りある花が届いた。

 

母は

友達の奏でる笙の音を聞きながら

友達の手で

友達のバンに乗せられた。

 

ドウランもぬらず

綿もつめず

ドライアイスもなしで

手作りのお棺に入った母に

焼き場の人々は戦々恐々だったらしい。

 

棺の蓋が規格外なので

はずしてくれ

と云われた。

 

最期のお別れが開棺でできてよかった。

 

サイズが規格外なので

フォークリフトで運べない

と云われた。

 

知り合いの手で運べてよかった。

 

こんな事できるもんなんだ

とびっくりした。

全てが規格外な母にふさわしい

お見送りができた。

 

晩年を規格外な相方と過ごし

多くの親しい友人に囲まれて

自由に楽しい時間を過ごせた母は

幸せだったと思う。

 

母を失うことに

身構えなくてよくなった私は

自由になれたのだろうか。