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牛乳石鹸で、「さ、洗い流そ。」では済まされない時。 - 精神分析のススメ
牛乳石鹸を嫌悪する人々は MBTI の F (感情型)なだけ? - 精神分析のススメ
に続いて、牛乳石鹸シリーズ、第3弾です。
論議を醸したこの宣伝ビデオ、父性の欠如という私にとって、思い入れのあるテーマが描かれているので、もう少し書いてみたいと思います。
さて、色々な解釈がありますが、ツイッターで、猫柳墓場さん(また、インパクトの強いお名前ですね)という方が、
「自分がどうしても日々やってしまう失敗や、愚かさ、抱えてしまう悩み、澱み、心の汚れに対し、肯定はしないけど『風呂でも入れ』と風呂場の石鹸として受容する。」
(すみません。ブログリテラシーないので、ツイート貼り付けることもできません。)と書かれていました。
「否定」に対する「肯定」は、父性原理の機能ですが、「拒絶」に対する「受容」は、母性原理の機能とも言えましょう。
更に、風呂の象徴するところは、母胎回帰願望。とも言えます。
父親である語り手が、「自己肯定」せず、一人(牛乳石鹸の力を借りて)「罪」を「洗い流す」というのは、私にとって大変興味深いイメージです。
精神分析発祥の地、西欧では、
男性の「罪」は、「父親殺し」に象徴される、絶対的な父への「反抗」
ですが、
日本男性の「罪」とは、「父親になれない=母親から分離できない罪=母子貫通の罪」とも言われております(神話とか、源氏物語の分析で、河合隼雄氏がどっかでそんなこと書いておられた気がします)が、もっと根源的に掘り下げていくと
「与える存在=母(女)になり得ない罪」なのではないでしょうか。
父親として、一人の大人の男として、自立するということは、「自分の意思を以って行動する」ということが含まれます。
この宣伝では、「自分の意思を以って、与える者」が、理想の「父親像」としてあるようにも思えます。
父親は、母親に言われるままに、従順な子供のように、「はーい」と、返事をし、ケーキを買い、プレゼントを買いに行く。
「家族思いの優しいパパ。…でも、それって正しいのか。」
というナレーションにかぶる映像は、働きに出る父親の背中。それに続き、一人でボールを投げる少年の姿。
「それって正しいのか」という問いは、自分には存在しなかった「優しいパパ」になれるのだろうか。なってしまって本当に良いのだろうか。という問いなのではないでしょうか。
報告しなかったことを叱責される彼の部下は、遅くなることを妻に報告しないで責められる、後の彼自身の姿とも重なります。
部下を食事に連れて行き、包容力ある上司を演じることで、「おやじ」になろうとするも、家族からの電話を無視することで、息子の「優しいパパ」になることを放棄してしまう。
妻の用意した食事を「享受できない状況」に自分を追い込んでしまう。
(少なくとも、この映像では)父親から与えられることのなかった少年が、父親の背中を流すシーンに、私は「沈黙のまなざし」というドキュメンタリーの、語り手の男性が痴呆症の父親を洗うシーンを思い起こします。私が、「慈しむ」とはこういうことなのかもしれない、と思ったシーンです。
自分は(何も与えてくれない)父親を慈しむ様に、息子を慈しんでいるのか。息子は(何も与えなければ)自分を慈しんでくれるのだろうか。という問いかけが、そこにはあるのではないでしょうか。
もしかしたら「おやじ」の不在から芽生えたのかもしれない、「背中を流したい」「与えたい」と思う気持ち、それを息子は感じているのか。「与えたい」「愛したい」「慈しみたい」という気持ちを自主的に、自分は感じられているのか。
不在な父親を求め、迷う日本人男性の姿が浮かび上がってくるように思えてなりません。
余談ですが、ツイートで、「タイでは牛乳石鹸が石鹸市場を席捲している」みたいなのを見かけました。
36時間くらい経って、あ、席捲と、石鹸かあー!と、時間差で閃いた時には、もう誰のツイートか、分からなくなっていました。
ファボっとけば良かった。
冗談遺伝子に欠ける私には、何言ってるかすぐ分かりませんでした。哀しい。
映画沈黙のまなざし(ルック・オブ・サイレンス)の秀逸な批評はこちら。
DVDで見るなら、是非とも監督のコメントも聴いて欲しい映画です。
父親不在、男はつらいよ、テーマの記事はこちらです。