「人が嫌がることはしてはいけない」では何が悪い? その 2.

前回、「自分が嫌と感じること」が何なのか、反芻することが、共感力向上に繫がる、という趣旨の記事を書きました。ウザい出来になってしまったので、どうしても、その1.が、気になる、という方にしかお勧めしません。

 

neofreudian.hatenablog.com

その続きです。

 

「何で、君そんなに小さいの?」

と、言って友達を泣かせてしまった、けい君は、何故友達が泣いてしまったのか、

「分かんない、赤ちゃんみたいに泣く方がおかしい」

と、言って、友達を余計に泣かせてしまいました。確かに、泣いた友達は、些細なことでめそめそする、鬱陶しがられたり、いじめられるのも、まあ、分かるって感じ子でした。

 

とはいえ、あまりにも傍若無人で、ふてぶてしいけい君を、放置しておいてはヤバイ、と感じた私は、ちょっとぽっちゃり…というか、日本の感覚では、がっつり肥満体型のけい君に、

「じゃあ、君は『なんでそんなに太ってるの?』と言われたら、どう感じるの?」

と、聞いてみました。ぶすっとして、黙り込んでしまった彼を見て、子供相手に大人気ないことを言ってしまった、と思う反面、けい君にイラついていた自分は正直に、

「ふっふーん(満足)」

と思ってしまいました。

 

こんな私の対応で、けい君は共感を学ぶことはなかっただろうし、優しい気持ちにはなれなかったことでしょう。

 

共感の発達というと、必ず言及したい研究があります。(言及、研究。ふふっ。どんどんオヤジになってます。)とはいえ、誰がいつ発表したかも、もうすっかり忘れていますが…愛着研究家の論文だったように思います。

 

男の子達に、ママへのプレゼントを選ばせる実験でした。

 

おもちゃのトラックと、口紅をみせて、

「さあ、どっちをプレゼントしたら、ママ、喜ぶかなあ?」

というヤツで、

3歳くらいだと、ほぼトラック、

5歳くらいになると、口紅を選ぶ子もちらほら。

という結果だったように、うろ覚えております。

(しっかり調べんかい!と、お叱りの声が上がりそうですね。はい。その通りで御座います。Goo様にお伺いを立ててみましたが、該当する論文、さっぱり上がってきません。年齢等、アヤシイ記憶を手探りにでっち上げました。学術論文ではないので見逃してください。)

 

口紅を選べる、ということは、ママは女性でお化粧するから、という、他者視点でプレゼントを選べる、ということは、共感力ばっちり!というアメリカ人お得意の3段論法です(ほんまか)。

 

ちなみに、口紅=共感 という決め付けは、トラックより口紅好きなLGBTQの、GT男児を考慮してないのでは?というフェミな批判がクラスメートからあったことを一応付け加えておきます。

 

閑話休題、私がぐっときた結果は、ここからでございます。

 

3歳くらい時点での母子観察で、大きく分けて、

「トラック、欲しかったんだ、嬉しい!」と反応をする母親Aと、

「ママは口紅欲しかったな」と真実を告げる母親B

2つのグループに分かれました。

 

さて、5歳くらいになったとき、口紅を上げた子供の母親は、A、B, のどちらに属していたでしょうか?

 

当然、自分の要望を正直にきちんと伝えた母親B群、と思いません?

 

ところが、「トラック、嬉しい!」母親A群の子供達の方が、後に「ママの欲しい物は、何だろう?」と考えて、口紅を選べる子供に育った。という、結果でした。

 

子供の「プレゼントしたい」気持ち、「プレゼントしたら、ママ、喜んでくれるぞ!」という期待感に応えられる母親は、子供に、「じゃあ、どうしたらママはもっと喜ぶんだろう?」と自主的に考えられる、共感力を有する子供を育てるのです。

 

共感力は、「相手の(本当の)気持ち」という、「正解」を求める力ではありません。

 

自分の経験に照らし合わせ、独創的に他者の内面を考察する力、想像力の賜物なのです。

 

しつこいようですが、繰り返します。

 

喜んでくれるママだから、「もっと喜ばせたい」と、子供は欲するのです。この、「…したい!」がなくては、創造性は枯渇します。共感は浅薄な付け焼刃で終わります。

 

ですから、教育者の皆様には、「他人が嫌がることはしてはいけない」と、規制する前に、子供が何を感じて、思って、「非社会的行動」に至ったのか、思いやりを持って接することを是非とも心掛けて頂きたく存じ上げます。

 

「思いやり」を享受し、感じ入ることのなかった者は、「思いやり」のある人にはなり得ないからです。

ちなみに、私がけい君に対して、

「この子はきっと、心無い周囲の人間に、『何で、お前そんなに食うんや』みたいな事を言われるんだろうなあ」

という、しんみりした感情を抱けたのなら、もっと素直に「ごめんね」が言える瞬間をがっつり捉えられたのだろう、とは思うのですが。そこまで人間できてませんでした。

ごめんね。けい君。大人気なく、いぢわる言う大人で。

世界は冷酷だって、もう充分わかってたのに、傷に塩塗られてばっかりでは、そりゃ、ふてぶてしくもなるわな。

「人が嫌がることはしてはいけない」では何が悪い? その1.

子供を相手に、「自分がされて嫌なことは他人にもしない」「自分がされて嬉しいことを他人にする」という指南では、限界がある、というツイッターをしばらく前にRTしました。

 

他人は自分とは違う、という認識ができない、他者を尊重できない人間しか育たないのではないか。という危惧をお持ちの方が少なくないようです。

 

まあ、そう言われるお気持ちは分かるのですが、フロイトの無意識や、ユングの深層心理にも見られるように、人は自分の気持ちですら、十全に分かりえない、というのが私の信念です。

 

まして他者のことなど分かるワケありません。

 

という前提で、他者を慮る、というのは全て自分の経験を通して行われます。というのが私の持論です。

 

心の理論、という研究が心理学ではさかんに行われています。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96

 

詳しくは、ウィキをご参照頂くと良いのですが、本々「心の理論」は、「人以外の霊長類には(他者ならぬ)他猿の頭の中がどうなっているのか分かるのでしょうか?」という考察に使われた用語でした。

 

様々な実験がなされ、とりあえず、サルにもある程度(それが、どんな程度なもんか、白熱の議論が交わされたのですが)の他猿理解はできるけどやっぱりおサルはおサル。人には全くかないません。って感じで収まった筈です。

 

そして、この白熱の議論は、発達論に繰り越され、(何故か)今度は似たような研究を人間の子供でやりましょう、ということになります。

 

これって、新薬の開発はとりあえず動物でやって、安全だったら人間で、という、自然科学の分野では、至極当然の流れなのは分かります。

 

が、まずは、動物でやってみて、それを人間に応用するという、この…なんともえげつない発想、「人は放っとけば動物と一緒。だから教育しなくちゃね!」という倫理感をもって搾取を正当化し、植民地政策に挑み、世界を席巻した、「うーむ、流石は西欧人...」だと感じます。 

 

この、「心の理論」(の「心」って、ちなみに英語では、mindです。ニュアンス、ちゃうくないか?とは思うのですが…)究極西欧的発想なパラダイムで、共感や、嘘、ひいては倫理観の発達の理解にもつながる重要な研究分野として長く注目されてきました。(かなり長いことやってるんで、もうやりつくしちゃったんじゃあないの?感が、10年前にもう既にあったのですが、今はどうなんでしょうね。)

 

色々な実験がありますが、そのうちのひとつを紹介します。

 

ややっこしいので、説明するの面倒です。さくっと飛ばし読みしてください。

 

子供1.にお菓子の箱をみせる。(子供:わーい!お菓子!)

箱を開けて見せると、鉛筆が入っている。(子供:え?お菓子じゃないの?)

そこで、子供1.に、質問です。

「子供2.がこのお菓子の箱を見つけました。子供2.は、箱の中には、何が入っていると思うかな?」(子供:なんだとぉ?お菓子くれるんちゃうんかったんかい?くっそー。やってられるかぁー!汚い大人の言うことなんか聞いたらいかんわ!)

 

正解は、お菓子。

箱だけ見た 子供2.は(鉛筆が入っていることは知らないので)お菓子が入っていると思うはずだから。

 

「自分だけが知っていて、他者は知らない」ということが、ちゃんと理解できていることが、正解できる前提となっております。

 

3-4歳くらいになると、正解できます。

「他人は知らない」こと(= お菓子の箱の中には鉛筆)を、自分だけが知っている、ということが理解できるから、(ホンマは鉛筆やけど、子供2.はウチとちごうてアホやから)「お菓子」(って言うやろ。)と答えられます。

 

ところが、幼い子達は、まちがう。

「自分は(鉛筆が入っていることを)知ってても、他人は知らない」という理解ができません。基本的には、他人も自分も一緒。(箱には)「鉛筆」(が入ってる。)と答えます。

 

この解釈にも議論の余地はありますが、そこを説明すると、今回の「自分がされて嫌なことは他人にしない」テーマから、どーんどん、ずーんずん、思いっきり逸れて行ってしまうので、やめときます。

 

こんな研究をし始めると、じゃあ、どうしたらもっと早く、正解できるようになるのか。とか、間違える子供をどうしたら、正解に導けるのか。という(いらんで)ことを考えるのが、学者としての性です。

 

学生時代は、かったるーと思いながら学んだ「心の理論。」とはいえ、心に残った研究が、一つだけありました。

 

子供1.に、回答を求める前に、質問を加えた物でした。

「鉛筆を見る前は、何が入ってると思ってた?」という質問を加えることで、「自分も最初は箱にお菓子が入ってると思っていた」という事実を思い出させ、言語化させることで、正解する確立が上がったという結果でした。

 

自分を把握すること抜きには、他者を認識することは不可能だ、ということの証拠として、「ほうーら、やっぱり!」という素直な気持ちで受け入れられた、というのが大きな要因で御座います。

 

前置きが大変長くなりましたが、ここからが本題です。

 

「自分が嫌なことは他人にするな」というと、子供は「僕(私)は全然平気。だから、他人にしてもオッケーだよね!」と言う屁理屈をこねることがあります。

 

子供に限らず、人は傷つけられると、今度は傷つかないように防衛機能を働かせます。「痛い傷(嫌なこと)」が、段々「平気」になっていくことは、大人になる、ということでもあるので、ある程度までは健全な反応と、いえましょう。

 

しかし、「本当は自分も嫌だった」という事実を否定することでしか、弱みをみせず虚勢を張ることでしか、自分を守ることができなくなってしまった人達には、他者に共感する余裕などありません。自分の痛みをまぎらわすことに神経を注ぎ、「痛い」と感じることができなくなってしまったのですから。

 

共感力のある大人になるには、自分に降りかかった「嫌なこと」や、「痛み」を、「乗り越えられた」と感じられる強さが必要です。その為には、まず、「嫌なこと」を感じる感受性、と共に、その経験を反芻し、理想的には、言語化することで、伝達することが必要です。その「嫌なこと」を、克服し、本当の意味で、そこから自由になる為にも。

 

「自分にされて嫌な云々…」という指南を子供に与える以前に、この「感受性+言語化」の過程を大人が手助けすることが必要です。

 

大人を含み、他者をイライラさせることを、子供がやり続ける時には、理由があります。自分がイライラしている、そして、その原因が分からない、ということがほとんどです。

 

子供に限りませんが、喧嘩というものは、大抵、くだらないことからエスカレートするものです。

 

例えば、はあちゃんが持っているぬいぐるみを、みいちゃんがつっつきます。はあちゃんが、「触らないで」と頼んでもみいちゃんは、止めません。

 

ここで、大人が

「自分のおもちゃに人が触ったら、嫌でしょう?止めなさい」

とみいちゃんに言っても、

「私は、はあちゃんに触られても平気だよ。だから、止めない。」

とか、下手すると、

「先生(ママでも良いのですが)はいつも仲良くしてね、って言うのに、ぬいぐるみを触ったくらいで怒るはあちゃんの方がけちんぼ」

なんて言われたりするので、

「はあちゃんは嫌だと言っているのだからやめなさい」

と言って止める方が簡単だ。と言いたくなるのでしょう。

 

とりあえず、問題行動を止めさせるのであれば、単純に禁止し、罰を与えるのが一番てっとり早いでしょう。けれども、それでは共感できる大人は育ちません。

 

このシナリオで、みいちゃんが、はあちゃんにちょっかい出すのは、嫌がられているのを承知な上でのことです。

 

問題は、「何で、嫌がられているのに、つっつきたいの?」「何で、やってはいけないと言われていることがやりたいの?」

ということです。

 

そこを、大人が理解し、言語化するのを手助けしてあげなければ、「自分が嫌と感じること」が何なのか分からないまま、他人をイライラさせ、罰の恐怖がないと暴力的な衝動を抑えられない子供達が増えるばかりです。

性欲オンリーなチャラ男には理性がない?

先日、こんな記事をみつけました。

 

 http://otokatsu.jp/love/cheat-reason-psychology/

 

笑わせていただきました。大変面白かったのですが、ちょっと引っかかることがあったので、書いてみます。

 

この桜庭さんという方、ヒトデさんの「何故浮気をするの?」という質問に、気持ちの良いくらい、一貫して、「ヤリたいから。」というお答えをなさっておられます。

 

「でも、そんなことしてたら皆を不幸にするのに」という主旨のヒトデさんつっこみには、「バレなきゃ誰も傷つかない。」「その時はその時。」と返答。

 

ヒトデさんは、「チャラ男はくず。ひっかからないようにしましょう。」と締めておられます。

 

至極、御尤もで御座います。

 

が、彼にはどういう訳か女性がガンガン寄って来る。それは何故?

という問題に今日は取り組んでみたいと思います。

 

この桜庭さん、自覚があるかどうかは別として、かーなーり、女性を憎んでおられます。

 

と言ってしまうと、身もふたもないので、女性に対して非常に両義的立場(求めて止まないけれど、恨み、憎んでる)におられます。とでも言っておきましょう。

 

彼が女性に求めて止まないモノは何か、と申しますと、体の関係「のみ」だと言えるでしょう。しかし、それを事前に明らかにしないで女性を誑かす彼には、もう一つの動機があります。

 

女性を拒絶すること。

女性に求められた上で拒絶できる立場に常に自分を置いておくこと。

 

だから、女性に求められる努力を精一杯にする。

 

脱がせて「騙された!」と、キレそうになっても、コトに及ぶ。

デリケートゾーンが臭くても、舐めようとする。(舐めるのは諦められたそうですが)息を止めてまでコトを達成なされる。

そこには、並大抵ではない御覚悟を感じられます。(いや、膣さえあれば、そんなの余裕!なのかもしれませんが)

 

自分がそこまで頑張って相手を悦ばせているのだから、女性が性行為に同意するのは当然。自分にとってヨクなければ一夜限りで切っても(相手を悦ばせたのだから)罪悪感なんて沸きません。

 

桜庭さんの様な方は、女性に限らず、とりあえずその場かぎりでも、他人をヨロコバせるのが得意です。というか、それだけしか考えられないし、できません。

「こんなに無責任にその場限りのことをしていては、他人が傷つく」という「近い将来」など、自分では全く意識していないこともままあります。

 

その為、浮気がバレたら大変、とか考えない、という「先のことは考えない」思考パターンが、異性に限らず、人間関係全般、行動一般に及ぶ方が多いです。

損得を勘定するのに長けており、自分の「得」になると判断した相手には無責任に都合の良い事を言い続け、それなりの信頼を得ることもできますが、状況が変われば平気で陥れたりもします。

 

長期間、真剣に付き合うと、天真爛漫な裏切りのオンパレードですが、その場限りのお付き合いですますには、それなりの気遣いをしてくれるし、一緒にいるのが楽しい、大変魅力的な人物でもありましょう。

 

理性が性欲に敗北している訳では決してありません。

彼等は(無意識的に、かもしれませんが)常に裏切りを予期し、裏切られる前に裏切る、使われる前に使う、をモットーに生きています。

 

こんな桜庭さんに、誰がした?

 

幼児期に信頼できる、頼れる大人が周囲にいなかった。ということだと思います。

 

大人を信頼できない子供はマシュマロをちょっと頑張って、今なら1個、もうちょっと頑張って、明日なら2個上げる、と言われると、迷わず、今、1個もらって帰ってしまいます。

 

明日、本当に2個貰えるという信頼感がないのに頑張るなんて、馬鹿のやることだ、という、潜在意識が、がっつりあるはずです。

 

父親が浮気をしていたのかもしれません。母親が自分勝手な愛情を注いだのかもしれません。

 

長期間に渡って、お互いを思いやる関係性など、想像もできないはずです。

 

只、こういうことを申し上げますと必ず、自分だって毒親や、壊れた家庭で育ったけど、まっとうに生きている、という反論をされる方がおられます。

 

確かに、過酷な生育歴にも関わらず、健全な生活を営んでおられる方も大勢おられます。

 

そのような方には、過酷な現実にも関わらず、明日2個貰えるマシュマロを信じる想像力があったからこそ、頑張れたのではないか、と申し上げるしか御座いません。

 

そのような逞しい想像力を有する方々には、是非とも、今、目の前にある、マシュマロに縋るしかない方々の、絶望的な気持ちを想像して頂けたら、と切に願います。

 

私にとって、桜庭さんは、性欲に勝てないコワイ男、ではありません。

 

刹那的に皆をヨロコバセることでしか、生存価値を見出せない、明日のマシュマロを信じられない切羽詰った人です。

 

こういう男に引っかからないためには、「今が楽しければ良い」「騙されたい」自分をきっちり見据えることが最も必要だと思います。

 

それにしても、ヒトデさん、

「皆さんはこういう悪い男に引っかからないようにしてください」

と、良識的に締め括っておられますが、育乳マッサージとか、デリケートゾーン石鹸のリンクがこのタイミングで入ってくると、チャラ男にディスられない為にも女性の皆さん、精進しましょうね、っていう裏メッセージなのかと勘ぐってしまいまう、疑心暗鬼な私です。

バカボンのパパなのだー の ススメ

私には、ツイッターでフォローしており、勝手にトレンドセッターと呼ばせて頂いている方が数人おります。このブログを書くインスピレーションを頂いている方々です。

 

5歳さんもその内の一人なのですが、先日、コラムのネタ、リクエストありますか?というツイートがあり、速攻で、リクエストさせて頂いた所、「私の希望にお答え頂いたのでは!」(狂喜!)という記事が上がっておりました。

 http://www.machikado-creative.jp/planning/58040/

嬉しいのと、成る程!と思ったので、(またかよ)他に書こうと思って(全然進まないで)いるネタを後回しにして、書きました。

 

リクエスト要望のあった数日前に、5歳さんが、「やばい、やばすぎ、あ、楽しくなってきちゃった、って思うことがある」って感じのツイートをなさっていたので、私がこの「『やばすぎ、楽しい』に至る過程をつぶさに分析して下さい」みたいなお願いをしたのです。

 

がっつり要望にお応え頂き、まことに有難うございました。

 

しかも、2回に渡って!

 

http://www.machikado-creative.jp/planning/57665/2/

 

ポジティブ馬鹿と…の記事を5歳さんは、こうはじめられます。

「ある著名な哲学者はこう言った。

『絶望的な状況で人が前向きに、楽観的に考えだすのは、言わば生存本能と言えよう、でなければ人は自ら死を選ぶだろう』と。」

そして、ポジティブシンキングを、3種類に分けておられます。(5歳さんとは違う名前つけてますが)

1.まあ、なんとかなるよ型

悪いことがあっても、終わりよければすべて良し、と信じて絶望的な今を頑張ろう、という生存本能に従う正統派、ポジティブ。

2.芸人型

「芸人でもないのに人を笑わせたい、ウケたいという思いが強くて、自分のピンチをネタと思ってしまうタイプ。このタイプはポジティブ馬鹿とも言う。」

 

そして、これは、ちょっと、私的にはポジティブに入れたくなかったのですが、

3.危険が楽しいアドレナリン中毒型

怖いけどやめられない、絶叫マシン(スキーでキリマンジャロ降下、崖のぼり、パイクでグランキャニオンジャンプ、などなど)を楽しむタイプ。

 

しかし、2.ピンチが楽しい芸人タイプ からの延長とすると、ふむふむ、納得!させられてしまう。

 

そして、5歳さんは世に蔓延するポジティブブームに警鐘を発します。

 

「ポジティブも限度が必要。用法用量を守るべき。」

 

失敗から学べ。馬鹿(ポジティブ)が過ぎると、死ぬぞ。と。

 

ここで、私は5歳さんのもう一つの記事、「馬鹿のススメ」の一節、5歳さんのご友人のお言葉に立ち戻りたいと思います。

 

「(俺、今めっちゃ馬鹿だなー)って。でも、その馬鹿な感じが馬鹿過ぎてめちゃくちゃ楽しくなってくるんだよね」

 

上述、2.芸人型 に相通じるのですが、この描写には、3.アドレナリンジャンキー型にはとーてーありえないプロセスが見られます(イーヴル・クニ-ヴルみたいな、バイク?でグランドキャニオンジャンプしようとした芸人アドレナリンタイプみたいな人もいますが)。

もう一人の自分が冷静に、馬鹿な自分を「馬鹿だ」と認識した上で、その冷静な自分をも笑わせよう、とする、3段階構造とでも言いましょうか、そこには、

1.馬鹿やってる自分 と、

2.馬鹿な自分を見つめる自分、に加えて、

3.観客とも言うべき、楽しむ他者

を介在する、コムズカシク言うならば、弁証的ハイパー「客観」が存在しています。

 

そして、この記事の締めを5歳さんは、こうなさっています。

 

「普通はしない馬鹿みたいな選択が、日常を非日常へと変えて人生を豊かにするのではないかと僕は考えている。」

 

この、「人生を豊かにする」馬鹿さ、とは、ハイパー客観とでも言いたい、弁証的プロセスを伴う、「物語る馬鹿」さなのではないでしょうか。

 

2.「物語る馬鹿」は、1.正統的、生存本能に従い、ピンチを乗り切る楽天家、や、3.アドレナリンに翻弄され、客観性を失ったジャンキー馬鹿

とは一線を画します。

 

前置きがすっかり長くなりましたが、ここからが本題です。

 

いきなり精神分析論に突入します。

私の大好きなD.W.ウィニコットの最も価値ある貢献の一つとして(他にも色々ありますが)「分析における『遊び』の必要性を明確にした」、ということが言われています。

 

下のリンクでまとめられている論文で、彼は、幼児のおしゃぶりというモノとの関わりに、「遊び」の原点を見出しており、おしゃぶりは、キラキラ「光る対象、主体の貪欲さを刺激するモノ」という描写をしております。

 

http://yokopsy.com/2014/20140413setting.pdf

 

おしゃぶりで「遊ぶ」ということは、乳(母親)からの分離を「楽しむ」ことであると思われます。

 

おしゃぶりは、「乳」の代替物、つまりは「母」の代替物、「自」(今、変換見ていて「児」の方が良いかも、と思ってしまいました。漢字の同音意義って素敵ですね)と「母」との間に存在するモノ、即ち「セルフオブジェクト(自己対象?)」であると通常は捉えられます。

が、ジム・ハーザックという分析家が「ファザーハンガー(父渇望)」という著書で主張された様に、私的には、母親からの分離こそ父親の助けで成されるべき、と信仰しているので、「乳」ならず、「父」との間に形成されるモノでもある。と、言わせて頂きたいところです。

この「乳」と「父」も同音異義で、良い感じ(漢字)。って、すっかりオヤジギャグですね。すんません。

つまり、 おしゃぶりは、対象である、「父」と、「乳」、と、自己を確立しつつある、「児」の狭間に立ち現れるモノ(セルフオブジェクト)であるといえましょう。

 

そして更に、何故か話は進化論へ。

男性を男性ならしめる性染色体の一つ、Y染色体はXよりも短い、つまりは遺伝情報の量でいうと、男性は女性に劣るのです。という論を聞いたことがあります。

「劣る」というと、語弊がありますね。

女性は性染色体をコピーする際に「失敗」があっても、もう一個あるから大丈夫。ですが、男性は、コピーに「失敗」すると、後がない、ということだそうです。だから、男性にしかない遺伝病が存在する。男の方が、幼児生存確率、寿命共に低い、確か、そんな話だったと思います。

 

そんなXがちょん切られただけ、みたいな「弱い」Y染色体を持つ男の存在意義は一体何なのか。それは、「進化の促進」である。

私のすっかり文系な頭でざっくり簡単に言うと、弱いやつはあっというまに淘汰されてしまう男達だからこそ、環境の変化に応じた個体のみ生き残る、という、「自然の選択」の「圧力」がかかり易い、ということだそうです。

 

つまり、種の保存を考えると、(イキナリ5歳さんに戻りますが)ポジティブ馬鹿な男達は、個体の保存という点では、理不尽な選択をしているように見えても、将来の状況がどう変わるか分からないという現実を踏まえると、「次世代の生存の可能性」を広げる上で必要不可欠な存在である。ということに、私の頭の中では、なっております。

 

長くなってきたので、締めに入ります。

 

このブログでは何回か、日本における父親の不在という問題に触れてきましたが、ここにきて、私は日本の理想の父親像を見出だしたように思います。

 

日本の乳、じゃなかった、父は、ずばり、バカぼんのパパなのだ!

 

http://www.dailymotion.com/video/xxsyaf

 

幼い頃、私はとても不思議でした。何故、あんなにどうしようもないバカぼんのパパに、あんなにきれいで常識的で、優しいママがついているのか。

 

バカボンのパパはふざけてばかりいますが、実は天才的植木職人さんで、ママはそこにほれ込んだ。というお話だったような気がします。が、ぜんっぜん納得いきませんでした。

 

が、この「種の保存」観点から捉えると納得です。バカボンのママは、先見の明あり、包容力豊かな素晴らしい女性。男のバカを許容しつつ、駄目なことは駄目と厳しく諭し、(死ぬほどの)無茶はさせない良識ある女性なのです。

 

そして、バカボンのパパは表向きは思いっきり役立たずに見えても、実は手に職ある、いざとなったら頼りになる男のみならず、子供に夢を見させる遊びの天才。母親喪失感なんか子供に感じさせません。

 

ポジティブ馬鹿は、個体としては死ぬ可能性を高めているだけかもしれませんが、馬鹿話を子供達と共有することで、母子分離を楽しみ、自立した次世代を育てるのには欠かせない、つまりは、種の存続の為には欠かせない存在であると言えましょう。

 

なんて。突拍子もない連想にまかせて徒然考えてばっかいるから、まぢめな論文書けなくて、うだつが上がらないんですよね。私ってば。(泣)

父親不在の記事はこちらでございます。

 EDと、父親不在と、村上春樹 - 精神分析のススメ

ハゲもヒゲも駄目ってどういうことよ?

日本の男性は、母親回帰願望が過ぎて大人の男になれない、と言う話を何回かしてきましたが、この男性全身脱毛の話、怖すぎです。

 

https://gorilla.clinic/cms/informationnews/horie_shibata_taidan/

 

スポーツ選手がつるつるだと効率良い、とか、芸人が話題をとるために、とか、堀江さんが髭そる時間も惜しい、って言うのなら納得できますが、美意識、となるとちょっと怖い。日本男子の草食化とか言ってますが、それって結局は髪の毛ふさふさ、ほっぺはつるつる男の子回帰願望ってことじゃあないですか?全くもって恐ろしい。し、哀しくなってしまいます。

 

学生時代、ギリシャ人の友達が、20台前半という若さでカッパ禿げてて、てっきり30過ぎていると思い込んだ私がとても失礼な発言をしたら、「僕は頭をいつも使ってるから、早く禿げたんだ」と、堂々とおっしゃりました。

 

(ちなみに、彼は、現在世界で理解できる人が20人くらいしかいない、と言われている「ひも理論」を説く最先端の理論物理学者として活躍しておられます。私のような、下々の者とは比べ物にならないくらい頭を酷使しておられます。が、相変わらずカッパさんで、つるつるにはならないようです。ということは、どれだけ頭を使っているかは、禿げ度には関係ないのでは、という疑惑に駆られますが流石に深く追求することは避けております。)

 

自分のハゲに対する偏見を恥じ入ると共に、彼の禿げている事に対する卑屈感がまるでないことに、格好良すぎる、と感服したのですが、今回の某政治家の「ハゲ」暴言といい、日本人のハゲに対する否定的感情っていったい何なんでしょう。

 

www.ikumou-life.jp

宗教(坊さん)に対する嫌悪感なんでしょうかねえ。

 

ちなみに、欧米でもハゲ防止薬、みたいなのは人気です。トランプ大統領も、ハゲ隠しているだろう、指が小さいのはちんも小さい証拠だろう、と揶揄されていますし。ハゲが、「男性性の欠如」と看做されていることは事実です。

 

が、日本のように、子供同士でハゲをネタにいじめる、というのは、聞いたことがありません。

 

www.ikumou-life.jp

やはり、「汚い大人」になってはいけない、という幻想が背後にあるように感じます。(ちょっと気になったのですが、マルコメ味噌の宣伝は今でも坊主頭の少年たちなのでしょうか?)

 

髭について言うならば、欧米人は体毛ふさふさ、ヒゲもじゃもじゃですから、髭の手入れを入念にする方も沢山おられます。紳士の為のおしゃれな髭剃りサロンも見かけます。が、あんまりお手入れされた髭はナルシシズムが滲み出て私は見ていて時折、恥ずかしくなります。

 

アメリカの女性は、無駄毛の処理に余念がありません。糸で眉毛や口ひげを取り除くサロンがあちこちにあります。

 

とはいえ、口元や、脇の下がふさふさしている女性もたまにはおられます。そういう場合は、ヨーロッパの方か、フェミニストオーラががんがん出ているか、で、後者の場合はちょっと引いてしまいますが、基本的には男性も女性も自然体が一番だと思っております。

ので、無駄毛を美しくない、とか、ハゲをみっともない、と決め付けるのは、男女の健全な自己イメージの育成を損なうもの、ひいては、人間性を損なうものとして、恐るべき現象ではないか、と思ってしまうのです。

男はつらいよ、関連の記事(か?)は、下のリンクをどうぞ。

私とそれ 日本人の「自我とエス」 - 精神分析のススメ

EDと、父親不在と、村上春樹 - 精神分析のススメ

続 ED: 去勢 と 回帰願望 - 精神分析のススメ

性器なんか切ったって、性犯罪をするやつは犯す

「性器なんかなくったって性的虐待する奴はする。」

昔一緒に働いていた方が、言われた言葉です。

彼女は、面倒見は良いし、頭も良く、機転が利いて、仕事もそれなりにできる方でしたが、いかにもアレなおばさんで、自分が主導権を常に握っていることに強烈な拘りを持っていました。

その彼女と一緒にテレビか何か見ていたのだと思います。

「子供を性的虐待なんかする奴等は、もう2度とそんなことできないように、性器を切ってしまえ」みたいなコメントがあって、私が考えなしに、「そうだそうだ」みたいなことを言ったように思います。

冒頭の言葉を能面の様な顔で発した彼女を見て、ふと、「ああ、そんな人に性的虐待受けてたんだ」という考えが過ってぞぉっとしたのを覚えています。

 

アメリカでしばらく前に、スタンフォード大学の1年生が、意識のない女性をレイプした事件がありました。

 (事件の詳細は以下のリンクをご参照下さい)

http://www.huffingtonpost.jp/2016/06/08/brock-turner_n_10349650.html

 

彼は、ゴミ箱の裏で、泥酔した女性に跨っていた所を自転車に乗って通りすがった外国人大学院生2人にみとがめられ、逃走するも、彼等に押し倒されて、そのまま通報されました。彼もラリっていたのでしょうが、捕まって薄ら笑いを浮かべていたそうです。

 

目撃者が2人もいて現行犯で逮捕されたにもかかわらず、前途有望とされた白人の彼が3ヶ月の懲役で釈放されたことに憤りを感じた被害者が、判決時に彼に対して読み上げた文章が多くの人の心に響き、全米、世界中に論議を醸しました。

 

www.buzzfeed.com

被害者の彼女は、目撃者も居る「最高のシナリオ」だから、示談で解決がつくだろう、と予測していたそうです。ところが、加害者は法廷で戦うことを選びました。彼女にその夜の記憶がない、ということを知った加害者側は当初の証言を覆し、性行為が同意の下で行われた、と主張し始めたのです。

 

法律の不十分さ、判事の情状酌量の理由付け等が政治的問題として取り上げられましたが、私が一番問題だと思ったのは、アメリカの法廷のあり方、加害者側が自己弁護の名の下に、被害者の人となりを疑う方向性で質疑応答をすることが赦されること、そして、そのことに対する批判がなかったことです。

 

被害者には「何歳ですか?」に始まる弁護側の口頭質問で、体重、その日の食事内容、何を飲んだ?水も飲まなかったの?いつ飲んだ?どれだけ飲んだ?飲み物はどの様な入れ物に入っていたの?誰に飲み物を貰った?普段はどれだけ飲む?誰にパーティーまで送ってもらった?何時に?正確にはどこで?服装は?何故そのパーティーに行ったの?パーティーに着いて最初に何をした?本当に?何時に?このラインはどういう意味?誰にラインした?いつ排尿した?どこで排尿した?外で誰と排尿した?携帯はオフだった?オフしたことは覚えてる?本当に?だけど、53ページにはオンだったって書いてあるね。大学では飲みに行った?かなり遊んでたって言ったよね?飲みすぎて記憶が飛んだことは何回あった?サークルで飲んだことは?彼氏とは真剣に付き合ってた?性交はしたの?いつから付き合い始めた?浮気を考えたことはない?浮気をしたことはある?(彼氏に)ご褒美をあげるってどういうこと?何時に起きたか覚えてる?カーディガンは着てた?そのカーディガンは何色?他に何か覚えていることはありますか?ない?

 

では、加害者の話を聞きましょう。

 

という感じの質疑応答が1年に渡って続いたそうです。

 

被害者や、目撃者の信憑性を如何に損なうか、という心理操作のプロである弁護士と、1年間、加害者側は密に連絡を取り合うのです。

 

有罪判決が出た後の声明でも、加害者の男性は被害者が指での挿入に同意した、と述べています。

 

加害者の父親は、息子が奨学金も大学も辞退し、充分社会的制裁を受け、苦しんでいる、と情状酌量を請いました。

 

性犯罪を法で裁くのが難しいのは、性行為が、双方の同意や、愛情に基づいたものでなかったこと、暴力的な行為であったことを証明することが難しいことに尽きると感じます。

 

性交中の「同意」は、理性や、言葉に因るものではありません。初めは「同意」していても、途中で「やっぱりだめ」ということは、男性、女性を問わず起こりえます。求め、求められる実感の交流があってこそ、幸せな結合を体現し得るからです。

 

濡れていない女性に挿入することにより、男性も不快や、痛みを感じます。

 

スタンフォードのケースでは、女性の膣内には泥、枯葉、と共に、裂傷があったそうです。

 

加害者は、同意があったと主張しますが、泥だらけの指を女性の内部に挿入し、傷を付けることが暴力的でなくて何なのでしょうか。

 

加害者は全く動きのない女性に跨って激しく腰を動かしていた、と目撃者の2人は語ったそうです。目撃者の男性の一人はその情景に取り乱し、泣き止むことができず、警察の事情聴取に応えられなかったそうです。

私の憶測ですが、この方達は当初、彼女に息がなかったと思ったのではないでしょうか。

 

薬物の影響とはいえ、全く反応のない相手に性的に興奮できるということは、言い換えれば、欲望や愛情で繫がるはずの性交の相手に意思がある方が邪魔ということでしょう。そう考えると、この加害者の男性自身、自分が愛され、求められることについて、恐らく恐怖心とも言える程の葛藤を抱えていたはずです。

 

自己弁護の権利というのであれば、被害者を攻撃するのではなく、加害者が如何に他者の痛みに目を閉じる必要性を感じなければならないのか、という点に注目するべきです。加害者が如何に人として欠けた存在にならざるを得なかったのか、という点を明らかにした上で、そのような人間が今後、如何に他者の痛みを慮りえるのかを模索するべきです。

真の罪悪感や、贖罪は、自分の大切な物が失われたことから、他者を思いやり、愛する過程でのみ、派生する物なのですから。

 

自分の感情に鈍い人は、他者の感情を敏感に察知することなどできません。

 

加害者の父親の手紙は鋭い批判の対称になりましたが、

 (父親の手紙と、それに対する批判の手紙の日本語訳は以下のリンクにあります)

http://watanabe-yo.sorairoan.com/?eid=27

 

私は母親の手紙を読んで、吐き気をもよおしました。ニュースなどで話題にならなかった為、日本語訳がありませんが、びっしり3ページ半に渡って、如何に自分の息子が天使の様に、素晴らしかったか、自分達の幸せな家庭が一夜で真っ暗闇になってしまったかが、綿々と書き綴られています。

 (母親の手紙の原文のリンクです)

http://pics.mcclatchyinteractive.com/news/nation-world/national/article82960937.ece/BINARY/Letter%20from%20Brock%20Turner's%20mother

 

彼女は、息子が水泳に懸ける情熱、競争心について、こう書いています。

 

「彼を指導したコーチは口を揃えてこう言います。『指導できる子だ』って。指導に従い、常に上達しようと努力を怠りません。(中略)彼は自分にプレッシャーをかけ、神経質な胃を持っていました。競泳の前に吐いた事も何度もありましたが、吐いた後はいつも良い成績を上げることができたようです。コーチは心配しましたが、彼は(吐くことで)上手くやっていたようです。

 

(主人)も私も決して無理強いしたことなんてありませんでした。息子は水泳を情熱的に愛していたのです。」

 

加害者は「他所の人は心配してくれましたが、私にとっては吐くくらい、どうでも良いことです。息子が勝って、満足すればそれで良いじゃありませんか。」と、誇り高々に公言する母親を持っていたのです。

 

自己愛充足の為には子供の痛みを、苦しみを平気で無視できる、自己中心的な欺瞞を、愛情と思い込んで育ってきたのです。

 

(長くなってしまったので、今回は何故そんなことになってしまうのか、という精神分析的考察を思いっきり省きますが)そんな彼が、死体相手に勃起する男になってしまったのも、仕方がないと思ってしまいます。(ちなみに、弁護側からは、寒かったから勃起した、という、中々おちゃめな釈明があったそうです。)

 

彼の家庭は自己欺瞞の泥沼地帯と言って良いでしょう。家族全員が、そして彼等の友人、知人達が、彼の暴力をかたくなに否定できるのは、彼自身が振るわれてきた暴力に、そして自分達が振るい続ける暴力に決して対峙しようとしないからです。今回の様な事件があってどんなに批判を受けようとも、事件前は全てが上手くいっていた、という幻想に浸る彼等の自己欺瞞は恐らく解消されるどころか、更に磨きがかかるのではないかと思われます。

 

アメリカには、一回でも性行為の初めに同意すれば、始まってから相手が暴力的になろうが何だろうが、性犯罪として認められない、という法律もあるくらいです。

 (以下のリンクは昨日のニュースでした)

http://www.wcnc.com/news/local/nc-women-cant-back-out-of-sexual-intercourse-once-it-begins-law-states/451522770

 

女性が性的に挑発するから男性が勘違いして、性犯罪が起こる、と真剣に信じる女性もいます。

そういう人達が加害者側に共感し、彼等を支援するからです。

 

加害者が釈放された日に家の前で、「性犯罪者は射殺せよ!」というプラカードと、機関銃を持って(る人は一人だけだったそうですが)抗議する人達も含めて、とっても怖いです。

 

性犯罪の刑罰を重くすれば犯罪者たちは躊躇する、という理屈は、裏を返せば、見つからなければ(捕まらなければ)何でもやる、ということです。

 

性行為が快感である、ということは、愛し合っている、求め合っている、という高揚感があればこそ。性行為を搾取し、暴力的に行使する男性は、自らが、歪んだ愛情、壮絶な暴力の享受者でもあったということです。

そのことに目を閉じ続けることは、暴力の連鎖を続けていく選択でもあるのです。

 

ということで、性器を切り落とそうが、性犯罪者を殺してしまおうが、彼等を創り出す人間関係、ひいては社会的背景をどうにかしないと、恐怖は増すばかり、暴力もなくなるどころか、どんどん陰惨に、凄惨になるでしょう、ということが言いたくて、この記事を書きました。

 

ちなみに、この事件に私が思い入れたのは、ブロック・ターナーの家庭環境を思い巡らすうちに、何故か神戸連続殺傷事件の酒鬼薔薇聖徒君のその後が気になり、日本のネットを開くきっかけにもなったからなのです。

neofreudian.hatenablog.com

全く異なる生育環境、犯罪ではありますが、双方とも、自分のエゴを見定めることなく、子供に理不尽な要求を押し付け、自分勝手な愛情を注いだことを、自己肯定しかできない親、そしてそんな親に対して、社会が、ご近所が「何かが歪んでいる」というメッセージを、彼等に受け入れられる形で伝えられなかった、という共通点があるのではないか、と切に感じます。

トラウマ その2.

前回、トラウマ解消について、いくつかの提案を致しましたが、ちょっと考え直しています。

 

neofreudian.hatenablog.com

手直しを始めたのですが、やっぱり補足することにしました。

 

トラウマというのは、「自分ではどうしようもなかった状況」という理不尽さを伴います。

戦争や、自然災害によって起こるトラウマなどは、最たるもので御座いましょう。

対人関係においても、「トラウマがある」という方々は、例えば強姦に遭う、様々なハラスメント、暴力に遭う、といったことに対して、「何で私がそんな酷い目にあわされなくちゃならないの?」という、答えのない問いを心のどこかに抱き続けているはずです。

上野様を例にとってみましょう。

【お悩み相談第5回】嫌な記憶の忘れ方 | ブログでしかできない話

からの引用です。

「昔の話になりますが、私は小学生の頃、上級生から目を付けられておりました。殴られたこともアザを作って家に帰ったことも御座います。

 

ですが、当時の私は『トラウマ』という単語を知らなかった。これが幸いだったと思います。

 

『上級生に呼び出され、数人に囲まれて、意見を変えなければ殴ると脅されたときの恐怖』を私はもう覚えておりません。そんな抽象的で意味が無くイメージしにくく覚えにくいものをいつまでも覚えているはずがないのです。

 

呼び出されたという『事実』は具体的なので覚えていますが、その時の『感情』という抽象的な存在は覚えていない。」

上野様にとって、この経験がトラウマにならなかったのは、彼が「トラウマ」という言葉を知らなかっただけではない、と感じるのは私だけでしょうか。

彼の、『上級生に呼び出され、数人に囲まれて、意見を変えなければ殴ると脅されたときの恐怖』という描写には、「自分に確固とした意見があることが、上級生に暴力を振るわれる原因だった」という彼にとって「納得」のいく理由付けがあるように感じられます。

「感情」は覚えていない、という点で、抗トラウマ防衛が働いている可能性はあるものの、上級生の暴力に対して、戦う意思を持ち続けることができた。「勝った」又は、「上手く自己主張できた」という実感を異なった形で、実現し続ける、自分を更新し続ける原動力にしている。

という点で、彼の記憶は「理不尽な反復」にはなりえません。戦うこと、自己主張することを、暴力の危険を覚悟で選んでいる、という立ち居地を取っておられるからです。

トラウマを持つ方々には、理不尽な暴力に対して、上野様の様に「納得のいく」理由付けがありません。

例えば、愛してくれているはずの親に、暴力を振るわれる。否定される。親の行動が全く理解できない。「毒親」と、名前を付けた所で、親の、そして、自分の暴力や、破壊的衝動は納得できないモノのままなのです。

「繰り返しの衝動」は、この「納得できない」モノをどうにか治める為に発動すると、私は考えております。

幼少期の親との関係性がトラウマになっている、という方々と親密になることは、自分が暴力を振るう立場になってしまう、又は、振るわれる立場になる、という大きな危険を孕みます。

 

「納得できない暴力」を克服する為に必要な通過地点だからです。

 

「納得できない」と感じる何かを察知したら、決して無視してはいけません。小さな「納得」努力を一々していないと、トラウマによる破壊的衝動はどんどんエスカレートしていきます。

相手との密なコミュニケーションも良いのですが、責めたり責められたりで辛くなってしまうことの方が多くなってしまうかもしれません。お互いが、何を恐れているのか、何に不安を感じるのかを理解しあうことを目的に、お互いを大切になさってください。

ブログに吐露するのも効果的なのかもしれません。と、色々な方のブログを読んで感じます。

が、やはり、信頼できる心理療法士にお話しするのがお勧めです。

 

「克服の幻想」を実現するには、それなりのリスク、痛みが伴いますので、覚悟してお臨み下さい。ということが一番言いたかったのです。