精神分析のススメ

海外在住メンヘル専門家。ヒップな精神分析をめざしております。

「人が嫌がることはしてはいけない」では何が悪い? その1.

子供を相手に、「自分がされて嫌なことは他人にもしない」「自分がされて嬉しいことを他人にする」という指南では、限界がある、というツイッターをしばらく前にRTしました。

 

他人は自分とは違う、という認識ができない、他者を尊重できない人間しか育たないのではないか。という危惧をお持ちの方が少なくないようです。

 

まあ、そう言われるお気持ちは分かるのですが、フロイトの無意識や、ユングの深層心理にも見られるように、人は自分の気持ちですら、十全に分かりえない、というのが私の信念です。

 

まして他者のことなど分かるワケありません。

 

という前提で、他者を慮る、というのは全て自分の経験を通して行われます。というのが私の持論です。

 

心の理論、という研究が心理学ではさかんに行われています。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96

 

詳しくは、ウィキをご参照頂くと良いのですが、本々「心の理論」は、「人以外の霊長類には(他者ならぬ)他猿の頭の中がどうなっているのか分かるのでしょうか?」という考察に使われた用語でした。

 

様々な実験がなされ、とりあえず、サルにもある程度(それが、どんな程度なもんか、白熱の議論が交わされたのですが)の他猿理解はできるけどやっぱりおサルはおサル。人には全くかないません。って感じで収まった筈です。

 

そして、この白熱の議論は、発達論に繰り越され、(何故か)今度は似たような研究を人間の子供でやりましょう、ということになります。

 

これって、新薬の開発はとりあえず動物でやって、安全だったら人間で、という、自然科学の分野では、至極当然の流れなのは分かります。

 

が、まずは、動物でやってみて、それを人間に応用するという、この…なんともえげつない発想、「人は放っとけば動物と一緒。だから教育しなくちゃね!」という倫理感をもって搾取を正当化し、植民地政策に挑み、世界を席巻した、「うーむ、流石は西欧人...」だと感じます。 

 

この、「心の理論」(の「心」って、ちなみに英語では、mindです。ニュアンス、ちゃうくないか?とは思うのですが…)究極西欧的発想なパラダイムで、共感や、嘘、ひいては倫理観の発達の理解にもつながる重要な研究分野として長く注目されてきました。(かなり長いことやってるんで、もうやりつくしちゃったんじゃあないの?感が、10年前にもう既にあったのですが、今はどうなんでしょうね。)

 

色々な実験がありますが、そのうちのひとつを紹介します。

 

ややっこしいので、説明するの面倒です。さくっと飛ばし読みしてください。

 

子供1.にお菓子の箱をみせる。(子供:わーい!お菓子!)

箱を開けて見せると、鉛筆が入っている。(子供:え?お菓子じゃないの?)

そこで、子供1.に、質問です。

「子供2.がこのお菓子の箱を見つけました。子供2.は、箱の中には、何が入っていると思うかな?」(子供:なんだとぉ?お菓子くれるんちゃうんかったんかい?くっそー。やってられるかぁー!汚い大人の言うことなんか聞いたらいかんわ!)

 

正解は、お菓子。

箱だけ見た 子供2.は(鉛筆が入っていることは知らないので)お菓子が入っていると思うはずだから。

 

「自分だけが知っていて、他者は知らない」ということが、ちゃんと理解できていることが、正解できる前提となっております。

 

3-4歳くらいになると、正解できます。

「他人は知らない」こと(= お菓子の箱の中には鉛筆)を、自分だけが知っている、ということが理解できるから、(ホンマは鉛筆やけど、子供2.はウチとちごうてアホやから)「お菓子」(って言うやろ。)と答えられます。

 

ところが、幼い子達は、まちがう。

「自分は(鉛筆が入っていることを)知ってても、他人は知らない」という理解ができません。基本的には、他人も自分も一緒。(箱には)「鉛筆」(が入ってる。)と答えます。

 

この解釈にも議論の余地はありますが、そこを説明すると、今回の「自分がされて嫌なことは他人にしない」テーマから、どーんどん、ずーんずん、思いっきり逸れて行ってしまうので、やめときます。

 

こんな研究をし始めると、じゃあ、どうしたらもっと早く、正解できるようになるのか。とか、間違える子供をどうしたら、正解に導けるのか。という(いらんで)ことを考えるのが、学者としての性です。

 

学生時代は、かったるーと思いながら学んだ「心の理論。」とはいえ、心に残った研究が、一つだけありました。

 

子供1.に、回答を求める前に、質問を加えた物でした。

「鉛筆を見る前は、何が入ってると思ってた?」という質問を加えることで、「自分も最初は箱にお菓子が入ってると思っていた」という事実を思い出させ、言語化させることで、正解する確立が上がったという結果でした。

 

自分を把握すること抜きには、他者を認識することは不可能だ、ということの証拠として、「ほうーら、やっぱり!」という素直な気持ちで受け入れられた、というのが大きな要因で御座います。

 

前置きが大変長くなりましたが、ここからが本題です。

 

「自分が嫌なことは他人にするな」というと、子供は「僕(私)は全然平気。だから、他人にしてもオッケーだよね!」と言う屁理屈をこねることがあります。

 

子供に限らず、人は傷つけられると、今度は傷つかないように防衛機能を働かせます。「痛い傷(嫌なこと)」が、段々「平気」になっていくことは、大人になる、ということでもあるので、ある程度までは健全な反応と、いえましょう。

 

しかし、「本当は自分も嫌だった」という事実を否定することでしか、弱みをみせず虚勢を張ることでしか、自分を守ることができなくなってしまった人達には、他者に共感する余裕などありません。自分の痛みをまぎらわすことに神経を注ぎ、「痛い」と感じることができなくなってしまったのですから。

 

共感力のある大人になるには、自分に降りかかった「嫌なこと」や、「痛み」を、「乗り越えられた」と感じられる強さが必要です。その為には、まず、「嫌なこと」を感じる感受性、と共に、その経験を反芻し、理想的には、言語化することで、伝達することが必要です。その「嫌なこと」を、克服し、本当の意味で、そこから自由になる為にも。

 

「自分にされて嫌な云々…」という指南を子供に与える以前に、この「感受性+言語化」の過程を大人が手助けすることが必要です。

 

大人を含み、他者をイライラさせることを、子供がやり続ける時には、理由があります。自分がイライラしている、そして、その原因が分からない、ということがほとんどです。

 

子供に限りませんが、喧嘩というものは、大抵、くだらないことからエスカレートするものです。

 

例えば、はあちゃんが持っているぬいぐるみを、みいちゃんがつっつきます。はあちゃんが、「触らないで」と頼んでもみいちゃんは、止めません。

 

ここで、大人が

「自分のおもちゃに人が触ったら、嫌でしょう?止めなさい」

とみいちゃんに言っても、

「私は、はあちゃんに触られても平気だよ。だから、止めない。」

とか、下手すると、

「先生(ママでも良いのですが)はいつも仲良くしてね、って言うのに、ぬいぐるみを触ったくらいで怒るはあちゃんの方がけちんぼ」

なんて言われたりするので、

「はあちゃんは嫌だと言っているのだからやめなさい」

と言って止める方が簡単だ。と言いたくなるのでしょう。

 

とりあえず、問題行動を止めさせるのであれば、単純に禁止し、罰を与えるのが一番てっとり早いでしょう。けれども、それでは共感できる大人は育ちません。

 

このシナリオで、みいちゃんが、はあちゃんにちょっかい出すのは、嫌がられているのを承知な上でのことです。

 

問題は、「何で、嫌がられているのに、つっつきたいの?」「何で、やってはいけないと言われていることがやりたいの?」

ということです。

 

そこを、大人が理解し、言語化するのを手助けしてあげなければ、「自分が嫌と感じること」が何なのか分からないまま、他人をイライラさせ、罰の恐怖がないと暴力的な衝動を抑えられない子供達が増えるばかりです。