精神分析のススメ

1970年代のNYCで一世を風靡したヒップな精神分析の啓蒙をめざす狂気専門家のブログです。

不躾で危険な質問:【安楽死】について思ったこと その2

先日の記事で

 

neofreudian.hatenablog.com

 

取り上げた

 

不治の病に侵され

会話も呼吸もままならないが

清明な意識」を保つ夫が

「『殺してくれ』と願っているとは思えない」

 

という

安楽死などと簡単に云ってほしくない」ツイに

 

話せない

食べられない

息をすることもままならない

彼は

「毎日どんな気持ちで過ごしているのか

毎日の楽しみは何か」

 

と云う

「純粋な質問」が付いていた。

 

この「純粋な質問」に

ツイ主さんは

 

「本人に確認することはできないが…」

 

と前置きした上で

きちんと回答していて

 

応えようとする

彼女の真摯な姿勢には

感銘をうけたのだが

 

その「純粋」な質問者に

 

「どこが純粋だ。

会ったこともない人から

不躾に興味本位な質問をされたら

貴方はどう思う?

純粋どころか

とても失礼で意地悪な質問だ。」

 

と絡むツイが付いていた。

 

「赤の他人にそんな質問されたら

貴方は不快ではありませんか」

 

と乱入する人も居た。

 

私は

「その質問は失礼だ」

 

という批判することで

純粋に「問いかける」モノを「ウザい」と

忌避するコミュニケーションが

日本の教育をダメにしている

 

 

ポテサラ買っても「大丈夫」ですよ

と「念じながら」

当事者に見せつける為に

子供連れでポテサラを2つ買う

 

という仮想空間ならではの

コミュニケーションが

マツコ・デラックスをポテサラ論争に巻き込む

というオソロシイ「狂気」が

蔓延する

 

 

ホリエモンひろゆき、イケハヤ、N国党首のような

「純粋」でカシコイけど

弱者への共感と

強いモノとしての倫理観が欠如したワカモノ達

(…彼らは絶賛オジサンだけどさ…

を量産する

 

と信じるので書いてみる。

 

以前この記事で

neofreudian.hatenablog.com

 

「自分」には分かり得ない

「他者」の内的経験を慮る

「共感能力」を育てるためには

 

まず

 

「自分」を理解すること

 

自分は「何が」「どう」イヤなのか

言語化し伝達する能力を育てること

 

が必要だ

 

みたいなことは

書いた。

 

共感を育てる為に

 

「自分がそんなことをされたら

 イヤでしょう?」

 

と問いかけることが

効果的ではないのは

 

「イヤじゃない」

という「防衛」の堅牢化を促すからだ。

 

そして

他者の傷を慮ろうとしない

頑なな「防衛」は

「そんなコトされたらいやじゃない?」

という

一見無邪気な質問が

「そんなことをされたらイヤなハズ」

という一方的な「思い込み」や

「『普通は』イヤだと感じるハズなことを

あえてヤルお前は根性が悪いし

社会不適合者だ」

という「批判」を内包し

「羞恥」を喚起しようとするが故である。

 

「純粋な質問」を意地悪だ

と云う人はこうも云っていた。

 

「(その純粋な質問には)

『意思疎通ができない人、楽しみがない人には生きる価値がない』

という発想があるのではないですか?

他人の気持ちや生きる愉しみに思いを馳せることは自由です。

しかしそれによって生命を選別することがあってはなりません」

 

意思の疎通もできない人には

生きる愉しみもなく

生きる価値もない

という

相模原事件の

植松死刑囚の優生思想に繋がる

 

というのが彼の人の論だ。

 

「おはようございます」が言えないモノを殺した

植松の思考回路を明快に分析する彗眼には

頭が下がる。

 

しかし

「寝たきりの人にも

平等に生きる価値と権利がある」

という元ツイの主旨に対して

「本人が生きるヨロコビを感じているかどうか」

という「純粋な質問」は

 

不快のみならず

ツイートの「本質に関係ない」モノだ

 

という批判は

(呟き=自由連想

をモットーとする)

私的には許容できない。

 

他人から見たら

何一つ不自由なく幸せで

楽しそうなイケメンも

希死念慮という「狂気」に苛まれることはアル。

 

彼らは

「誰も僕のことを分かってくれない」

「生きていても愉しくない」

「自分が存在する意味も価値もない」

と苦悩し生命を断つのだ。

 

生きる価値とは

他者が与えるモノでも

奪うモノではない。

 

だからこそ

迫りくる死を目前に

 

言葉を発することもできない彼は

何が楽しいのか

本当に自分は彼のことを理解してきたのか

 

純粋に「質問」し続けることは

「本質的に」必要なことだ

 

と私は思う。

 

他者が個人の「生きる価値」を判断することは

倫理に反する「罪悪」ではあるが

当人が「死にたい」と云うから

安楽死を処方する社会では

精神科も「必要ない」ということだ。

 

 

 

追記

個人的には

 

彼は寝たきりで何もできないが

娘の成長を見守ることを

何よりも愉しみにしている。

 

なんて(例えツイッター上でも)親に云われたら

私が娘の立場なら

 

重荷でしかない

 

とも思った。

 

いや…娘さんは

そのように「愛」されて嬉しいかもしれんが。