精神分析のススメ

1970年代のNYCで一世を風靡したヒップな精神分析の啓蒙をめざす狂気専門家のブログです。

「人が嫌がることはしてはいけない」では何が悪い? その1.

しばらく前のことですが…

 

子供を相手に、

「自分がされて嫌なことは他人にもしない」

「自分がされて嬉しいことを他人にする」

という指南では、限界がある

 

という主旨のツイートがまわってきました。

 

「他人と自分は違う」という認識ができない

自己中心的で

他者を尊重できないお子様に

そんなこと言っても

「私(僕)はイヤじゃないからお友達もイヤじゃないハズ」

とゴネられて面倒くさい

という保護者、及び教育者様のお気持ちは分かります

が、

フロイトの「無意識」や

ユングの「深層心理」という概念に則るならば

 

人は自分の気持ちですら十全に分かりえないモノなのです。

 

まして他者のことなど分かるワケありません。

 

「分かりえない」他者を慮る努力とは

「分かりえない」自己を理解する努力に等しい。

 

と私は信じております。

 

心の理論、という研究が心理学ではさかんに行われています。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96

 

上のウィキに経緯がまとめられていますが

元来「心の理論」とは、

「おサル様には

(他人ならぬ)他猿の頭の中がどうなっているのか

分かるのでしょうか?」

という考察に使われた用語でした。

 

様々な実験がなされ、白熱の議論が交わされましたが、

とりあえずは、

サルの他猿理解能力には限界があり

人には全くかなわん。

って感じで収まった筈です。*1

 

そして…この白熱の議論は、

何故か児童発達論に持ち越され*2

今度は似たような研究を人間の子供でやりましょう、

ということになります。

 

これって…

新薬の開発はとりあえず動物でやって、

安全だったら人間でレッツトライヽ(^o^)丿

という

自然科学の分野では、至極当然の流れです。

 

が…

 

まずは、動物でやってみて

それを人間に応用する

という、この…エゲツない発想

「人は放っとけば動物と一緒。だから教育しなくちゃね!」

という倫理感をもって搾取を正当化し

植民地政策をもって

世界を席巻した

「おおぅ、西欧人的発想...」

ってなります。 

 

閑話休題

 

この、「心の理論」*3

 究極西欧的発想なパラダイムで、

共感や、嘘、ひいては倫理観の発達

にもつながる重要な研究分野として長く注目されてきました。

 

かなり長いことやってて

「もうやりつくしちゃったんじゃないの?」感が

20余年前にもう既にあった気がしますが

今はどうなんでしょうね…

 

色々なバリエーションがありますが、一番単純なヤツを紹介します。

 

それでもややっこしいので、説明するの面倒です。

さくっと飛ばし読みしてください。

 

子供Aちゃん にお菓子の箱をみせる。(A:やったー!お菓子もらえるヽ(^o^)丿)

箱を開けて見せると、鉛筆が入っている。(A:え?!お菓子じゃないの?)

箱を閉めてから…

Aちゃんに、質問です。

「Bちゃんがこのお菓子の箱を見つけたよ。

Bちゃんは、箱の中には、何が入っていると思うかな?」

Aちゃんにしてみたら、

「なんじゃとぉ?

お菓子くれるんじゃなかったんかい?

くっそー。やってられるか💢」

って気分だと思うのですが…

 

カシコい大人の皆様には、

正解は、お分かりですね?

 

お菓子

 

です。

 

汚い大人に騙される屈辱を知らない

純真無垢なBちゃんは、

お菓子の箱の中には実は鉛筆が入っている

などと、知る由もありません。

 

が、小さなお子様達は

「自分は知ってるけど、Bちゃんは知らない」

ということが、イマイチ理解できません

ので、

実際に自分の目で見て確認した

箱の中に入っているモノ、

 

「鉛筆」

 

と答えてしまいます。

 

このバージョンは、比較的単純なので

大方、3-4歳くらいになると、

「正解」できます。

 

「Bちゃんは知らない」こと 

= お菓子の箱の中には鉛筆 

 

を、自分だけが知っている

ということが理解できると

 

「ホンマは鉛筆が入ってるけど、

Bちゃんは知らんから

『お菓子』言うやろ」

 

となるワケです。

 

発達心理学の大御所ピアジェは、この

 

自分が知っていること=他者も知っている

 

という乳幼児に特徴的な思考様式を

自我と他我、主観と客観を同一視する傾向とし、

「自己中心的思考」

と名付けました。

 

こんな研究を始めると、

どんな子供が早い時期に正解できるか

とか

どうしたらもっと早い時期に、正解できるようになるのか。

とか

間違える子供を如何に正解に導けるのか。

という(いらんで)ことを考えるのが

学者としての性です。

 

学生時代は

かったるスギー

と思いながら学んだ「心の理論」

とはいえ、心に残った研究が、一つだけありました。

 

Aちゃんが、回答する前に、ある質問を加えてみます。

「鉛筆を見る前は、何が入ってると思った?」

すると…

Aちゃんは

「そーいえば…

箱だけ見せられた時は

お菓子が入ってると思ってた(ムカッ)」

ことを思い出し、言語化することで、

「そっかー。そしたら、きっとBちゃんかて、

お菓子と思うわな」

と…

若年児の正解率が上がったという結果でした。

 

私的には

「もー、そんなんどーでもエエやんか」

と思ってしまう研究が山ほどある中

 

「自分」の思考を認識し、

言語化することで

他者の思考を憶測することが可能になる*4

 

というこの結果には胸がアツくなりました。

 

つまりは

 

言語化に伴う自己理解を深めることで他者理解も深まる。

 

という「データ」ではありませんかヽ(^o^)丿

 

前置きが大変長くなりましたが、ここからが本題です。

 

大人:「自分が嫌なことは他の人にやっちゃダメ」

子供:「僕(私)は全然平気。だから、他人にしてもオッケーだよね!」

 

のように

自己中心性思考に囚われた分離不全

クソガキ系屁理屈をこねる人は

お子様に限らず少なからずいらっしゃる

と常々感じます。

 

かく云う私も

クソガキ系屁理屈に囚われて

大切な人を傷つけるオトナでした。

 

自分のイタミに鈍感な人は

他者のイタミを慮れません。

 

人は傷つけられると

次は傷つかないように「防衛機能」を働かせます。

 

鋭敏な感受性が鈍麻になり

「痛い傷(嫌なこと)」が

徐々に「平気」になっていくことが

「大人」になるということでもありましょう。

 

新しい「傷」に順応するのは

健全な反応である

とも、いえましょう。

 

他者(親)の「善意」を守るためであれ

傷ついた己の脆弱な自我を守るためであれ

「本当は自分も嫌だった」

という「モヤり」を

「否定」する「防衛機能」が強固になると

他者に共感する「余裕」などなくなってしまいます。

 

自他のイタミを無視して

現状維持する方がラクだからです。

 

フロイト教授は「健全」な精神とは

愛と労働にヨロコビを見出せるモノだ

と云ってたそうです*5

 

降りかかる理不尽で不愉快な「嫌な事」を

「イタミ」を伴って感受した上で

「乗り越えられた」と感じられる

自我のしなやかさがなければ

自分は平気でも相手にとっては辛い事かもしれない

という豊かな想像力は得られない

ということだ。

と私は信じます。

 

実際に

最近の精神分析では

しなやかに狂人…じゃなくて…

強靭な自我を育成する為には、

日常的に看過する「傷」を反芻し

言語化することで

「他者(分析家)」と共有し一緒に乗り越えた

という修復的経験が繰り返される事が必要である。

 

みたいなことも云ってます。

 

「嫌なこと」を克服し

本当の意味で、そこから自由になる為にも…

 

「自分にされて嫌な云々…」

という指南をクソガキ系なお子様達に与える以前に、

この「言語化」の過程を

「大人」や「仲間」が手助けし

「寄り添う」ことが必要なのかもしれません。

 

周囲がイライラすることを

やり続ける人は

 

自分がイライラしています。

 

そして、その原因がよく分からない

ということがほとんどです。

 

子供に限らず

喧嘩は

大抵、小さなことから始まります。

 

例えば…

みいちゃんが持っているぬいぐるみを

ゆうちゃんがつっつきます。

みいちゃんが怒って

「触らないで」

と叫んでも

ゆうちゃんは、ひるみません。

 

ここで、大人が

「大切なおもちゃに触られたら、嫌でしょう?」

とゆうちゃんに言ってみたところで、

「ボクは、別に触られても平気だよ」

とか、下手すると、

「先生(ママでも良いのですが)は

『いつも仲良くしてね』

って言うのに…

ぬいぐるみ触ったくらいで怒るみいちゃんの方が悪い」

とか言われたりするので、*6

「みいちゃんは嫌だと言っているのだからやめなさい」

と言って止める方が簡単だ。

と言いたくなるのも当然でしょう。

 

「問題行動」を減らすのであれば

有無を言わさずに

ダメなモノはダメ

と禁止したり、

罰を与えるのが一番てっとり早いでしょう。

 

けれども、それでは共感できる大人は育ちません。

 

このシナリオで、

ゆうちゃんが、みいちゃんにちょっかい出すのは、

嫌がられているのを承知な上でのことです。

 

問題は、

「何で、嫌がられているのに、触りたいの?」

「何で、触ってはいけないモノを触りたいの?」

ということです。

 

自分が何をしたいのか

自分は何に嫌と感じるのか

 

気付けないまま

 

周囲をイラつかせ、

罰の恐怖がないと

暴力的な衝動を抑えられない子供達が

ウヨウヨするジャパンにならないためにも

子供達のイタミを無視することなく

「寄り添う」大人が必要だ

 

と切実に感じます。

 

ウザい出来上がり…かな?と気になったので、リベンジしました

「人が嫌がることはしてはいけない」では何が悪い? その 2. - 精神分析のススメ

*1:いや、それがどの領域でどの程度理解してるのか、どうしたらニンゲンに近い能力を獲得するのか、について白熱の議論が今なおどっかでなされてるハズですが…

*2:これも

Development recapitulates evolution「発達は進化の過程を総括する」

ってアレなんですけどね…

*3:「心の理論」ちなみに英語では、Theory of mind です。

Mind やで?「心」って…ニュアンス、ちゃうやろ…?とは思うのですが…

*4:実はこの研究結果

言語化そのものが正解率に影響するのか

記憶を掘り起こす努力が影響してるのか

解釈は微妙なトコロですが…

*5:真偽は不明ですがアイデンティティ(同一性)の概念で有名なエリクソン先生いわく。

*6:昭和のオトナは、みいちゃんの方に「そんなことで怒るな」と言う確立の方が高かった気がしますが…今はどうなっすかね