精神分析のススメ

1970年代のNYCで一世を風靡したヒップな精神分析の啓蒙をめざす狂気専門家のブログです。

トラウマ その2.

前回、トラウマ解消について、いくつかの提案を致しましたが、ちょっと考え直しています。

 

neofreudian.hatenablog.com

手直しを始めたのですが、やっぱり補足することにしました。

 

トラウマというのは、「自分ではどうしようもなかった状況」という理不尽さを伴います。

戦争や、自然災害によって起こるトラウマなどは、最たるもので御座いましょう。

対人関係においても、「トラウマがある」という方々は、例えば強姦に遭う、様々なハラスメント、暴力に遭う、といったことに対して、「何で私がそんな酷い目にあわされなくちゃならないの?」という、答えのない問いを心のどこかに抱き続けているはずです。

上野様を例にとってみましょう。

【お悩み相談第5回】嫌な記憶の忘れ方 | ブログでしかできない話

からの引用です。

「昔の話になりますが、私は小学生の頃、上級生から目を付けられておりました。殴られたこともアザを作って家に帰ったことも御座います。

 

ですが、当時の私は『トラウマ』という単語を知らなかった。これが幸いだったと思います。

 

『上級生に呼び出され、数人に囲まれて、意見を変えなければ殴ると脅されたときの恐怖』を私はもう覚えておりません。そんな抽象的で意味が無くイメージしにくく覚えにくいものをいつまでも覚えているはずがないのです。

 

呼び出されたという『事実』は具体的なので覚えていますが、その時の『感情』という抽象的な存在は覚えていない。」

上野様にとって、この経験がトラウマにならなかったのは、彼が「トラウマ」という言葉を知らなかっただけではない、と感じるのは私だけでしょうか。

彼の、『上級生に呼び出され、数人に囲まれて、意見を変えなければ殴ると脅されたときの恐怖』という描写には、「自分に確固とした意見があることが、上級生に暴力を振るわれる原因だった」という彼にとって「納得」のいく理由付けがあるように感じられます。

「感情」は覚えていない、という点で、抗トラウマ防衛が働いている可能性はあるものの、上級生の暴力に対して、戦う意思を持ち続けることができた。「勝った」又は、「上手く自己主張できた」という実感を異なった形で、実現し続ける、自分を更新し続ける原動力にしている。

という点で、彼の記憶は「理不尽な反復」にはなりえません。戦うこと、自己主張することを、暴力の危険を覚悟で選んでいる、という立ち居地を取っておられるからです。

トラウマを持つ方々には、理不尽な暴力に対して、上野様の様に「納得のいく」理由付けがありません。

例えば、愛してくれているはずの親に、暴力を振るわれる。否定される。親の行動が全く理解できない。「毒親」と、名前を付けた所で、親の、そして、自分の暴力や、破壊的衝動は納得できないモノのままなのです。

「繰り返しの衝動」は、この「納得できない」モノをどうにか治める為に発動すると、私は考えております。

幼少期の親との関係性がトラウマになっている、という方々と親密になることは、自分が暴力を振るう立場になってしまう、又は、振るわれる立場になる、という大きな危険を孕みます。

 

「納得できない暴力」を克服する為に必要な通過地点だからです。

 

「納得できない」と感じる何かを察知したら、決して無視してはいけません。小さな「納得」努力を一々していないと、トラウマによる破壊的衝動はどんどんエスカレートしていきます。

相手との密なコミュニケーションも良いのですが、責めたり責められたりで辛くなってしまうことの方が多くなってしまうかもしれません。お互いが、何を恐れているのか、何に不安を感じるのかを理解しあうことを目的に、お互いを大切になさってください。

ブログに吐露するのも効果的なのかもしれません。と、色々な方のブログを読んで感じます。

が、やはり、信頼できる心理療法士にお話しするのがお勧めです。

 

「克服の幻想」を実現するには、それなりのリスク、痛みが伴いますので、覚悟してお臨み下さい。ということが一番言いたかったのです。

トラウマ

について

フロイトの「快楽原理の彼岸」という論文があります。

 

フロイトが、「タナトス」という

「リビドー」に相対する衝動を

初めて打ち出した論文なのですが…

当地のメンヘル業界内では、

「臨床に生かせない」

「ザル(お野菜なんか洗う時に使うやつです)な論理や」*1

と、めっちゃ評判が悪いこの論文

私は大好きなのですが

それについて書こうとしたら

もう、さっぱり訳わかめになりました。

 

ので、あきらめて。

 

元々上野さんの良記事に触発されたので、

「トラウマが消えなくて困っている。」

という問題に集中してみようと思います。

ueno.link

 

まず、トラウマというのは

消えない傷だからトラウマなのです。

 

車をお持ちの方ならご存知でしょうが

一度事故や盗難にあうと、保険金が上がります。

交通違反とかなら分かるけど

不可抗力*2なのに理不尽です。

が、

事故や盗難に一回遭うと、

同じ様なことが起こる確立が

(無事故な人に比べると)上がるそうです。

 

不注意だから。

 

という理由付けをするのかもしれません

が、

私は、「トラウマ」の理論だと思っております。

 

不運に遭った人は、それを

「克服できた(=傷が癒えた)」

という実感がない限り

その記憶を

「完結」した物語として

「オサメる」ことが出来ない限りは

同じく「理不尽」な不運を惧(おそ)れ、

繰り返すことになるからである

と理解しております。

 

では、その「克服できた」という実感は

如何に得られるのか。

 

「繰り返そうとする衝動」を

どうしたら解消できるか。

ということを様々な心理療法

精神分析や、トラウマ専門の治療では

試みるのです。

 

ということで…

下手に素人が名前なんか付けてしまうと

にっちもさっちも行かなくなってしまう

という上野さんのご意見

全くもって、御尤もで御座います。

 

以下、精神分析的トラウマ対処を

ざっくり説明させて頂きます。

 

「如何にトラウマを克服し得るか」

 

に焦点を当てているので、楽観的です。

 

トラウマ その2.も

是非とも併せてお読み下さい。

 

とある分析家が講義で、

PTSD(トラウマ後のストレス障害)の原因となった

『現実』の出来事以前には

必ず個人的な妄想や、幻想があったはず。

その幻想こそが一次的要因で

『現実』の出来事はPTSDを患う

きっかけにすぎない」

というよーなことを言っていました。

 

「成る程ー」

とは思ったものの、彼女の言わんとするところが本当に

「分かった!」

と感じるまで、実はかなり時間が掛かりました。

 

例えば…

「死ぬのが怖い」

と思って戦場に臨んだ兵士が砲撃にあって生き残る

すると、それがトラウマになります。

 

「撃たれても生き残った」

という現実を陵駕する

「撃たれたら死ぬ」

という恐怖や、幻想がそれ以前に強くあると

「撃たれたのに生き残った」

という現実が入り込む余地がない

ということなのかな…

と、

(もしかしたら全く異なる

意図での発言だったのかも

しれませんが)

かなり後になって実感しました。

 

故に、「撃たれたら死ぬ」恐怖を繰り返す。

 

「生き残った」実感が得られず、

「撃たれる(攻撃される)のが怖い」

又は、

「自分はあの時死ぬべきだった」

という気持ちに固執してしまう。

 

その無意識的(又は意識的)

「繰り返しの衝動」が

トラウマを形成するのです。

 

「死ぬのが怖い」

なんて、全ての人が抱くものだ。

といわれるかもしれません。

が、個人的に抱く「死の恐怖幻想」は、様々です。

 

個々人の持って生まれた性質に加えて、

生後間もない幼児期の体験によって色づけ、

形付けがなされるものだからです。

 

トラウマと言う言葉が

元々は、帰還兵の生死に関わる恐怖体験を

意味するものだったにも関わらず、

対人関係のトラウマにも

当てはめられるようになったのには、

精神分析の理論に因る所でありましょう。

 

というのも…

精神分析では、幼児期の

「おっぱいが口の中にない!」

という体験を、

「どうしよう!死んじゃうー!」(絶望)

とか、

「生きてられへんやんか!どうにかせー!」(憤怒)

という

生死に関わる幻想の根源

としているからです。

 

子供を見ていると時々、

「なんでこんなくだらないこと

(ぬいぐるみがふとんからおっこったとか、

擦りむいてちょっと血が滲んだとか)

で生きるか死ぬかみたいな迫力で怒ったり、

怖がったりするんだろう?」

って、思うことありませんか?

 

オトナにとっては、些細なことでも

子供達にとっては生死に関わる一大事なのです。

 

子供達の「生死に関わる一大事」を

「コワかったね」

「痛かったね」

「でも、もう大丈夫」

 

 

回復の過程を「共有」してくれる

「誰か」を心に抱くことで

私たちは

危機を乗り越えて生き延びる確信

メンタルの強靭さ

を獲得出来るのです。

 

「一大事」に直面した時…

「あら、そんなの大したことないじゃない」

とか

「そんなことで泣くなんてみっともない」

と言ってしまう「誰か」を心に抱える人は

「一大事」に直面しても

誰も「分かってくれない」

「1人でどうにかしなければならない」

不安や恐怖や憤りを抱えることになります。

 

トラウマの種類にもよりますが

オトナになっても

トラウマ的に苦しい状況を繰り返される皆様には

イキナリ精神分析はオススメできません。

 

「認知行動アプローチ(DBTがオススメです)で、

トラウマ対処法を身につけた上で

興味がおありでしたら是非とも精神分析をお試しください。」

と言いたいところです。

 

古き良きフロイト教授の時代とは異なり、

「無意識の衝動」を、意識化するだけでは

「衝動」に打ち勝つことは難しいことが

明らかにされてしまいましたからね。

 

「トラウマに精神分析は効かない」

という批判は横においといても、

いきなり自由連想法

トラウマ眩想にアタックしていくのは

大きな危険を伴います。

 

自身の不安や恐怖の根源にある幻想に

立ち向かおうとすると

じっとしていられないくらい

掻き立てられ、

信じられない程

強烈な感情が湧き上ってきたりして

どうしようもなくなってしまうことも

ままあります。

 

まずは、それを

「一緒に乗り越えてくれる」

という信頼感を抱ける相手

(治療者に限ったことではありませんが)

をじっくりお探しください。

 

又は、そのような信頼関係を

作り出そうと試みることです。

その過程そのものが、

トラウマ解消への第一歩になり得ます。

 

それから、次にトラウマ的出来事に遭遇なされた時には、

ここがチャンス、正念場

と心構え

「克服感」を抱くためには、

トラウマという「繰り返しの衝動」から抜け出す為には

ご自身がどの様に振舞えばよいのか…

どの様な「結末」をトラウマという「終わりのない幻想」に

与えなければならないのかを

じっくりお考えになっては如何でしょうか。

 

そして、誰かに

「トラウマに苦しんでいるの」

と告白されたら、

「そんな辛いことがあったんだ、大変だったね」

だけでなく、

「どうやって乗り越えて生きてきたの?」

「どこからそんな強さが出たの?」

と、彼等が「繰り返しの衝動」を乗り越えるべく、

「克服の幻想」の可能性をより大きく膨らませる過程に

寄添ってみては如何でしょうか。

 

トラウマは、消すことはできませんが、癒すことはできるのです。

neofreudian.hatenablog.com

*1:しっかし、そんなん言い始めたら、彼の理論全部ザルちゃうか?

と、正直なところ、私は思ってしまうのですが

*2:「悪い」相手がいると保険金は相手が払うので、話は別ですが

ラブホの上野さんがウケるワケ 

恋愛赤ペン先生、いつも「成る程!」と思います。

誕生日おめでとうLINEを送る男の意図【恋愛赤ペン先生】 | ar(アール)web

長い記事も、知性溢れていて素敵です。

【お悩み相談第5回】嫌な記憶の忘れ方 | 上野のブログでしかできない話

(最近日本ではホットなのでしょうか。フィボナッチ。)やられました。こんな形で引っ掛けてくるなんて。

はっきり言って、格好良過ぎです。

 

彼の魅力は、断定的な口調に如実に表れる、揺ぎ無い自信、鋭い洞察力、深遠な知識、等々ありますが、ずばり、クール、という表現がぴったりです。

 

昨今珍しい、甘えないオトコです。

 

甘えないオトコは、自立しています。

 

母親のキチガイじみた愛情、束縛を断ち切るためにさぞかし壮絶に戦われたことでしょう。

 

ueno.link

 

彼のいう、「牙の生えた男」は、「戦う意思をもち、自分一人でも進むことを覚悟した男」です。

 

【お悩み相談第25回】共通点と相違点 | 上野のブログでしかできない話 - Part 4

 

「牙の生えた男」は、誰にも頼らず、自分以外は敵とみなす、という点で自己愛性の被害妄想をも想起させます。

 

それでもモテるのは、彼らが自由に生きるリスクを背負っていて、そこに皆が憧れるからだ、と上野さんはまとめておられます。

 

それでは、彼等がリスクを負える揺ぎ無い自信とは何処から来るのでしょうか。

キチガイじみた母親の愛情を、断ち切ることができたからだと、私は憶測します。

この、母親の愛情が、重荷でしかなかった場合、自分を歪めるものであった場合、「戦闘狂」で「馬鹿」な、ギャンブラーは、他人の気持ちを顧みず、冷酷無慈悲です。疑心暗鬼に陥り、自己を充足させてくれるはずの対象を恨みこそすれ、有難く受け容れられない「ギャンプラー」達には、失うモノは何もありません。このやけっぱち状態が、自信と摩り替えられてしまうことも、ままありましょう。

 

が、上野さんは、決してそうではありません。

 キチガイになるざるを得なかった母親を見つめ、その愛情を充分に享受することにより、断絶の哀しみを受け止め、繫がりを回復することができるからです。断絶に慄き、回帰幻想に浸る自己愛性PDを患うことなく、真の自分を見出すこと、自己の確立が可能になるからです。

所謂ポストフロイディアンな精神分析境界例の理論によると、対象(母親)を全否定することなく、等身大で受け容れた上で、自他の断絶の痛みを通過される方々は、自信に満ちていながら、愛情深く、優れた許容力を有するとされています。

この点は、上野さんの「普通の人」に対する共感度の深さに表れているでしょう。

 

「『普通の人』だって…最初は意見の対立を恐れていなかったはずなのです。しかし、…環境がそれを赦さなかった。意見をすることも、主張することもできなくなってしまったのです。」

 

この「環境」とは、全てを包み込んで、自他の区別を無きものにしようとしてしまう、迎合を強要する「母親的な」日本社会の原理と言ってもよいでしょう。

 

母親的な原理から離脱する確固たる強さを持ち、そこから離脱することに対する全ての責任を負えるということは、それに伴う痛みを十全に受け止められたということなのではないでしょうか。だからこそ、迎合する「普通の人」達に対する理解と優しさを失わないでいられるのではないでしょうか。

 

上野さんには、女性の知恵袋として、又、男性の憧れ、同一化の対象として、末永く頑張って頂きたく存じ上げます。

 

ラブホの上野さんネタの記事

neofreudian.hatenablog.com

neofreudian.hatenablog.com

日本の男性諸氏へのメッセージ、以下の記事もご参照下さい。

私とそれ 日本人の「自我とエス」 - 精神分析のススメ

EDと、父親不在と、村上春樹 - 精神分析のススメ

そして、去勢というえげつないテーマですが、

続 ED: 去勢 と 回帰願望 - 精神分析のススメ

ラブホの上野さん と 性同一性:【ズートピア】は「勝つ」か「負ける」か…弱肉強食の世界? 

いつも、斬新な切り口で悩み相談をバシバシと片付ける、上野さんの文章、楽しく読んでいるのですが、このLGBTの方のご相談に対するお答えを、勝ち負けにからめておられることに、違和感を抱きました。

 

ueno.link

結論的には上野さんと同じです。勝ち負けを軸に偏見を捉えるのも、御尤もですし、上野さんのニーチェの絡め方もグッとくるのですが、私的にはズートピアについては全く異なった見方をします。ということで、お読みください。

 

まず、私のアンポンな頭では、ニーチェは理解不可能なのですが、ズートピア見て、泣けました。子供騙しにちょろっとこまされて、大変お恥ずかしいのですが、大好きな映画のひとつでもあります。

 

ネオフロイディアン板ズートピアあらすじ

(上野さんの様に、すっきり短くできませんでした。)

 

肉食獣(=強者)のキツネは信用できない苛めっ子?

幼い頃、草食獣に虐められ、

偏見に傷つき詐欺で金儲けするようになったキツネ。

小さなウサギ(草食獣=弱者)は警官になれない?

獰猛なライオン(肉食=強)はヒツジ(=弱)をいじめる悪者権力者?

草食獣は肉食獣と相容れないのか?

そんなことない!

復讐心に燃えるヒツジが黒幕だったことを、

草食獣は肉食獣の協力を得て、暴いた!

一件落着、大団円。

(そして、怠け者は…やめとけって。自分で突っ込んでみました)

 

という展開で、弱肉強食というテーマは根底に流れてはいる物の、

大衆心理操作による偏見や、暴力だって、

個々人の繫がりを回復することで克服しちゃうぜ!

という大変アメリカンで、楽観的結末となっております。

(私が個人的に抱いているニーチェの印象とは、対照的でございます)

 

LGBTQ(最近では、クイアーという、ゲイと何がどうちゃうん?と、私にもちょっと解説不可能なグループが、私等も入れろ、と言うことで最後にQが付け足されるようになったそうです。)を、弱者と見る点も、文化的背景を考慮すると一面的だと感じました。

 

ゲイと芸の関わりは深く、

LGBTQは、ちょっと特殊な「憧れの人達」という立ち居地もあるからです。

アンディ・ウォーホル(ゲイ)や、フリーダ・カーロ(バイ)の御乱交、

宝塚や、ジャニーズ事務所にまつわる、まことしやかな噂などが、

最たる例で御座いましょう。

日本では得に、織田信長等、ゲイと権力者

という親和性も見逃す事ができません。

 

これを踏まえた上で、迷える若者が

「自分はもしかしたら、ゲイ?」

と思い込むのは、

「自分はもしかしたら特別?」

と思いたいことの現われとも捕らえる事ができましょう。

 

「私はゲイです」と宣言して、同姓愛者と恋愛関係になり、

実は異性にも惹かれる、と告白すると

「何だ、バイか」

と、拒絶されてしまう、

かといって堂々と、

「私はバイです」

と言っても、

「何だ、そんな中途半端な気持ちなのかよ」

と、門前払いを受けてしまう。

LGBTQ最先端を走るアメリカでも

中高年層の方々の間では、よく聞く話です。

 

話が逸れますが、

(私流の解釈ではコスモポリタンで中性的とでも言いましょうか)

メトロ(セクシャル)がヒップ(流行?)な若者世代では

異性愛と同性愛者の境が曖昧になってきている

という説も御座いますが、

これは、ごく一部の都会での話なのではないか、

というのが私の印象です。

 

アメリカでも田舎では特に、強弱、勝ち負けという、

権力構造が、ゲイや、有色人種といった

少数派に対する偏見に大きく関与していることは

トランプ大統領の支持率が高いことからも、明白な事実でしょう。

 

ご質問全文読ませて頂きました。

ご自身のセクシュアルオリエンテーションについて、

周囲の偏見について、

そして、何よりも

恋愛をしたい、親密な関係を作りたいのにそれが困難である、

といった、様々なお悩みが錯綜しておられると感じました。

 

最初の一文、

「私がご相談したいのは、私は何であると名乗ってこれからを過ごせば良いか、ということです。

自分がバイか、ゲイなのかが分からない、ゲイと公表しておかないと、ゲイの女性とのお付き合いができない。

ということですが、私にしてみれば、

「名乗る必要性は本当にあるのですか?」

とお伺いしたいところです。

悩み相談なのに、全く役に立たない返答で、

こんなことには向いていないのが、丸出しですね。

 

同性愛なんて気持ち悪い、

と幼少時は思っておられた、ということですが

実はゲイの方にもゲイに対する偏見や、嫌悪感を抱く人は

めずらしくありません。

「同性愛など気持ち悪い」

と連呼される御両親をお持ちなら、尚更です。

 

思春期以降、20代までは、アイデンティティーの確立、

それから40代までは親密な関係を築くこと

が発達過程上での課題になると、

エリクソンは心理社会的発達論で述べております。

 

まだ20代前半の相談者様が、

御自分の性的嗜好(セクシュアルオリエンテーション)に迷いを感じ、

そのことで、自己同一性(アイデンティティー)が揺るがされていることも、

発達過程上、妥当な年齢であると思われます。

だからこそ、

「同じ悩みを抱える人達と心境を分かち合いたい」

と言う気持ちを抱くも至極当然でしょう。

 

「私が異(同?)性愛者かもしれない、という話題は男性にとても受けます。

ということですが、

女性が性に関するトピックをオープンに話すということは、

男性にしてみれば、

「私をオンナとして意識しないでね。

あんたなんか、欲情の対象にはならんからね」

といわれるようなもので、心地よい距離がとれる、

又は、真摯に対応しなくても良い、

ということではないでしょうか。

 

発言者の性別に関わらず、

「あなたに欲情する可能性があります」

と言われて、嬉しい女性はあまりいないように思われます。

どちらかといえば、恐怖感を抱く

可能性の方が高いのではないでしょうか。

どちらにしても、女性と親密な関係を持ちたいのであれば、

公言するメリットはあまりないような気がします。

 

不安や、焦りも感じられているのかもしれませんが、

「恋愛をしたい」というのであれば、

自分がゲイかバイかということに固執するよりは、

御自分の「この人が好き」という気持ちを大切に、

相手と心地よく一緒に過ごせる時間を作ることが

最重要のように思われます。

 

迷いを抱く御質問者様に、

「男でもいけるかもしれないのに、私を選んでくれたことが嬉しい」

と思えず、

「男でもいけるってこと?…ちょっと無理」

と、拒絶する彼女もアレですが、

御質問者様自身も、何故そんな彼女と親密になられたのでしょうか。

「パイ」であることが分かったから

拒絶されてしまう様な関係性は

所詮その程度のものだったのではないでしょうか。

 

恋愛とは、拒絶されてしまうことなど恐れていてはできません。

ゲイ、バイ、異性愛と分けてみたところで、

恋愛関係において、

お互いを求め、

想いあい、

労わり合える関係を造り出すことに於いては、

何ら変わりは御座いません。

 

ご質問者様が、同性愛者の女性に魅力を感じるのであれば、

彼女達が集まりそうな場所、イベントに参加するなど、

「私も同性愛者です」

と名乗りを上げなくても

出会いを求めることは可能ではないでしょうか。

常識に縛られず、独創性の強い、芸人な方々と

交友を深めるのもありでしょう。

 

異性愛者の方が、異性と交際する際に、

「自分は、異性愛者です。」

と名乗る必要が無いように、相談者様も

「自分は…です。」と、カミングアウトする必要性は、

親密な関係を造るという上では重要ではないはずです。

 

ご質問者様の悩みは、

恋愛相手を探すのに苦労する、

と言う趣旨だけではなく、

真剣に聞いてくれる相談相手を見つけるのにも苦労する、

と言うことでしたが、

(ちょっと楽観的ですが)ズートピアの流れで行くと、

本当に仲良くなってしまえば、

愛し合ってしまえば、

相手がバイであろうが、ゲイであろうが

偏見に囚われない信頼関係を持てるはずです。

 

ネットや、講義では同性愛に好意的でも、

リアでは引かれるのが辛い、

というのであれば、

尚更、親しくもない相手に

「自分はゲイかもしれない」

と公言することは避けられた方が無難です。

親身になって話を聞いてくれる友人が見つけられない、

というのは、ゲイ、バイという、

セクシュアルオリエンテーションというよりは、

むしろ、ご自身の人間関係に於ける距離のとり方、

自己承認欲、自己顕示欲のあり方に問題があるのではないでしょうか。

 

カミングアウトしたくらいで、

ドン引きするような人達に傷つくというのなら、

そんな人達とお付き合いしなければ良いのです。

「そんな器量の狭い奴ら、浅薄な奴らはこちらから、願い下げ」

と思えず、どうしても疎外感に悩まされる、

どうしても(理解の無い大多数に)受け入れられたい、

というのであれば、大人しく、大衆に紛れて

異性愛者として生きていく選択をなされることをお勧めします。

 

と言う感じで、結論的には

「安易に他人から受け入れられることを期待してはいけません。

御自分のやりたい、欲しい、という気持ちを貫くには

相応のリスク、対価を伴います。

御自分の選択に責任をお持ちください。」

という上野さんのご意見に全く同感です。

【いじめ】と藤田ニコル 罪悪感なんてクソなのに。

藤田さんの

「いじめた子が心配」という発言が

どの様な文脈で発せられたのかが分からないので

この記事書くの迷ったのですが。

 

バッシングが凄いので。

 

「こいつ、いじめる側の人間だな」

「それだけのことをしでかしたんだから当然だろ
加害者を心配するとかキチガイかよ」

「犯罪者の人権とかどうでもいい」

「いや、背負えよ
後日和解したならともかく、人殺しやぞ」

「アホか、人殺しといて心配もクソもあるか
刑務所はいれや、あと賠償もはらえ」

 

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1927726.html

 

等の名無しコメント。

 

「何の罪も無い(死ぬほど悪いことをしていない)人が死んだ」こと

に対するやるせ無い気持ちは分かります。

 

「自殺」を「殺人」にむすびつけたい気持ちも分かります。

 

しかし、です。

 

「自殺」に至るストレスの一要因として

「いじめ」があった。

ということは事実でも

死ぬという決断をしたのは当人です。

 

直接手を下した「殺人者」がいないのに、

いじめた子供達を「人殺し」と言う程の、

豊かな想像力があるのなら…

もう一歩踏み込んで、

子供達の「いじめたい」気持ちを

想像することはできないのでしょうか。

 

いじめられた子供が何故、

誰にも助けを求められなかったのか…

 

「誰も信頼できない」

「死ぬことが一番ラク

 という絶望感は一体どこからくるのか…

 

想像し始めたら、

絶望感は実は

「いじめられる」

ずっと以前から潜んでいたことに

気付くはずです。

 

いじめがあったのに

「気付かなかった」り、

見て見ぬ振りをした周囲の人間は、

如何でしょうか?

 

彼等も「殺人犯」ですか?

 

 

「犯罪者の人権とかどうでもいい」

 

という人は、世の中の不条理を全く理解していません。

 

現実は、善悪がはっきりした、

水戸黄門の世界ではありません。

 

ふとした間違いから

自分が犯罪者というレッテルを張られて

吊るされる可能性は

ざらざら転がっているのです。

 

匿名で言葉の暴力を振るう人達は

自分が

如何に破壊的で残虐なモノでありえるのか

考えてみた事は

あるのだろうか

と心配になります。

 

自分を省みることは、

他者の気持ちを理解する初めの一歩でもあります。

 

被害者意識に突き動かされる

無自覚な「暴力」が

他者に及ぼし得る影響を考えようとしない人達は、

何があっても自分の在り方を変えることをしません。

 

自分は、常に「善良」な被害者だからです。

 

匿名で無責任に言葉の暴力を垂れ流す人は、

自分ではいじめられて自殺した子供や、

その親の為に、という名目で

正義感に溢れているつもりかもしれません。

が、被害者に共感する自分達は

実は日常の鬱憤を晴らす為に

「いじめたい」

気持ちを制御しない子供達と

一緒だということに気付いていません。

 

二コルさんは、きっと誤解される隙を見せたのでしょう。

若いとはいえ、有名人で影響力もありながら

無思慮だったという批判は仕方ないにせよ、

「あほか」

キチガイか」

等と罵倒される筋合いは全くありません。

 

本当の問題は、アンミカさんの言う、

「いじめがなかった前提で動いていたことで、

実は加害者の子たちの更生の機会も奪っている」

という点だと思います。

 

西川史子さんの

「いじめた側は、一生贖罪として残していかなきゃいけない」

という発言が、唯一正当な意見というコメントをみました。

 

又しても、文脈が分からないし、

大変失礼とは存じますが、

私にしてみれば、

情に流されているだけで、

建設的でないこの方の意見の方が、

「ばっかじゃねぇかー」

という印象です。

 

いじめた側に贖罪させるという大義名分は

いじめそのものです。

バッシングで負の連鎖を存続させるより、

いじめが起きないように、

「無邪気」な「いじり」が行き過ぎないようにするには

如何したら良いか

ということを考えるべきです。

 

そのことについて、

オープンに対話できないのであれば、

いじめはなくならないでしょうし、

加害者達の真の悔悛は得られません。

 

罪悪感なんか背負って生きる事なんて、

はっきり言って無意味です。

 

罪悪感に苛まれて生きる人達は、

「自分は悪いことしたって

分かってて苦しんでるんだから、

もう赦してーやー」

とばかり、

自分を見据えたり

変えようとすることは決してしないからです。

 

クソみたいな罪悪感を感じたり、

植え付けるくらいなら、

自分の中に潜む「無自覚な残虐さ」に

真正面から向き合う方が、

余程問題解決の道に繋がります。

暇な女子大生と、騙されたい人々

暇な女子大生というツイッターがいることを、5歳さんの記事を読んで知りました。

(追記:5歳さんの記事がgoogleからの勧告で消去されたそうです。立派に言論の自由の冒涜です。日本のgoogleは、何故そんな権限を持っているのでしょう。抗議できないんですかね?)

 

2月くらいまで遡って読んでみましたが、老人(禿げ)嫌いで、親の金で適当に私大に入ってリア充しているイケメンが羨ましい東大の男子(達)の妄想キャラ臭がプンプンします。

 

皆きっとそんなのウスウス感じ取っているんでしょうけど、エンタメ性が高すぎるため、「中の人」あばきが無粋とされるのでしょう。

 

電車男」をちょっと前に読みましたが、あれも、お話としては楽しいけど、実話としては信憑性に欠ける話でした。

 

彼女(?)の魅力、文章力やエンタメ性の高さについては、5歳さんや、以下の記事で、充分に考察されています。

エリート男喰い日記「暇な女子大生」がバカ受けする訳 | 社会貢献でメシを食う。NEXT 竹井善昭 | ダイヤモンド・オンライン

 

ので、私は不信感を棚上げにして幻想に浸りたい、現実逃避な日本の若者の妄想を考察してみたいと思います。

 

暇女が東大生に受けるのは当然です。エリート嗜好のやりマン。という設定では、エリート以外の男性は楽しめない筈。なのに、何故ここまで拡散したのか。

 

私は、この原因が暇女さんの単純明快なエリートの定義にあると見ております。東大学部生、又は卒業生。「センター試験で800以上とれる」賢さ。偏差値70の賢さ。

 

知能テストの開発にも携わった、ピアジェというフランスの心理学者は子供の知的発達について研究しました。ピアジェは小学校高学年以降は、「抽象概念および仮説上の出来事に関して合理的、系統的に考える」能力を有する(ウィキ参照)。としています。

 

中学、高校と、本来ならば倫理観や、哲学といった抽象概念が発達する時期に、偏差値と言う絶対的な価値観を押し付けられる子供たちは、テストで100点取れさえすれば、成功者。勝ち組。幸せになれる。というシェマ、「外界の認知に関する基本的な枠組み」をがっつり叩き込まれるワケです。

 

ピアジェについては、この方のサイトも参照しました。

http://psychjapan.com/276.html

 

暇女さんに話を戻します。

 

彼女の男性選択の基準には、はっきり言って創造性のかけらもありません。

 

しかし、それが彼女の魅力でもあるのです。男を狩り、破天荒にセックスを楽しみながらも、絶対的安定感をもたらす。

 

白黒はっきりつけられる。良し悪し、善悪のくぎりが明快。水戸黄門の世界観と一緒です。分かり易い正義が勝つ世界です。

 

偏差値高くても、お金をひけらかしてはイケません。というのも、偏差値低くても、お金は儲けられるという不条理に対する反感が表れているといえましょう。

 

(偏差値高くても)社会に適合できない男の子達は、これ(お勉強)さえ出来れば、何があっても(コミュ障でも、キモくても)女の子は受け入れてくれる、という幻想に浸りたいのです。

 

偏差値=脳力で、女の子が膣ピクしてくれる、と信じたいのです。

 

暇女さんの関白宣言には、是非とも(内田)春菊さんや、西原(理恵子)さんを踏まえて「チンかす洗って」を入れて貰いたかったです。でも、「爪切って」だからこそ、男性諸氏の幻想として成り立つので、まあ、仕方ないですかね。

 

因みに、男性諸氏には、ちんを大切にして頂きたい、と言う趣旨の記事はこちらになっております。

EDと、父親不在と、村上春樹 - 精神分析のススメ

続 ED: 去勢 と 回帰願望 - 精神分析のススメ

neofreudian.hatenablog.com

私とそれ 日本人の「自我とエス」

5歳さんの記事に触発されて考察しました。(追記。GOOGLEから警告受けて、削除されたそうです。何てことでしょう。抗議できないんですかね。言論の自由は何処だって。まったく。)

www.machikado-creative.jp

「頭はいつも知性的で理性的。それに引き換え〇んこ脳は常にエロい事を考えている。この二つの脳みそは一応いつも戦って、せめぎ合っているものの、圧倒的な力でいつもちん〇脳の方が勝つ。

(中略)

そして、このちん〇脳が悪さをしないか、世の女の子達は日々疑い、監視し、とてつもなく膨大な時間とエネルギーを浪費している。」

 

河合隼雄先生の「自我とエス」の素晴らしい解釈、「わては それに やられましてん」を思い出します。

 

「自我」は、理性の座する「頭」、「エス」は本能、即ち、「〇んこ脳」。そして、自我を監視、本能を検閲する「超自我」は「世の女の子達」。正に、女性原理に支配される日本人の深層心理を現す素晴らしい描写です。

 

5歳さんってば、もしかして、フロイディアン?

 

ちなみに、「わて」が「それ」にやられてしまったり、「超自我」が必要以上に厳しい無慈悲な物になってしまわないように、「それ」の欲動を「わて」が汲み取り、意識的に制御できるようにするのが、精神分析のゴールでございます。

 

くどいようですが、ちん切るなんて言わないで下さいよね!

男性の「〇んこ脳」から生まれる創造性なしには「世の女の子達」も悦びを失い、日本の将来は真っ暗闇になってしまいます。

 

「否、どうしても〇んこが悪い!」と言われるのなら、切ってしまう前に、是非とも、精神分析をお試し下さい。