精神分析のススメ

1970年代のNYCで一世を風靡したヒップな精神分析の啓蒙をめざす狂気専門家のブログです。

バカボンのパパなのだー の ススメ

私には、ツイッターでフォローしており、勝手にトレンドセッターと呼ばせて頂いている方が数人おります。このブログを書くインスピレーションを頂いている方々です。

 

5歳さんもその内の一人なのですが、先日、コラムのネタ、リクエストありますか?というツイートがあり、速攻で、リクエストさせて頂いた所、「私の希望にお答え頂いたのでは!」(狂喜!)という記事が上がっておりました。

 http://www.machikado-creative.jp/planning/58040/

嬉しいのと、成る程!と思ったので、(またかよ)他に書こうと思って(全然進まないで)いるネタを後回しにして、書きました。

 

リクエスト要望のあった数日前に、5歳さんが、「やばい、やばすぎ、あ、楽しくなってきちゃった、って思うことがある」って感じのツイートをなさっていたので、私がこの「『やばすぎ、楽しい』に至る過程をつぶさに分析して下さい」みたいなお願いをしたのです。

 

がっつり要望にお応え頂き、まことに有難うございました。

 

しかも、2回に渡って!

 

http://www.machikado-creative.jp/planning/57665/2/

 

ポジティブ馬鹿と…の記事を5歳さんは、こうはじめられます。

「ある著名な哲学者はこう言った。

『絶望的な状況で人が前向きに、楽観的に考えだすのは、言わば生存本能と言えよう、でなければ人は自ら死を選ぶだろう』と。」

そして、ポジティブシンキングを、3種類に分けておられます。(5歳さんとは違う名前つけてますが)

1.まあ、なんとかなるよ型

悪いことがあっても、終わりよければすべて良し、と信じて絶望的な今を頑張ろう、という生存本能に従う正統派、ポジティブ。

2.芸人型

「芸人でもないのに人を笑わせたい、ウケたいという思いが強くて、自分のピンチをネタと思ってしまうタイプ。このタイプはポジティブ馬鹿とも言う。」

 

そして、これは、ちょっと、私的にはポジティブに入れたくなかったのですが、

3.危険が楽しいアドレナリン中毒型

怖いけどやめられない、絶叫マシン(スキーでキリマンジャロ降下、崖のぼり、パイクでグランキャニオンジャンプ、などなど)を楽しむタイプ。

 

しかし、2.ピンチが楽しい芸人タイプ からの延長とすると、ふむふむ、納得!させられてしまう。

 

そして、5歳さんは世に蔓延するポジティブブームに警鐘を発します。

 

「ポジティブも限度が必要。用法用量を守るべき。」

 

失敗から学べ。馬鹿(ポジティブ)が過ぎると、死ぬぞ。と。

 

ここで、私は5歳さんのもう一つの記事、「馬鹿のススメ」の一節、5歳さんのご友人のお言葉に立ち戻りたいと思います。

 

「(俺、今めっちゃ馬鹿だなー)って。でも、その馬鹿な感じが馬鹿過ぎてめちゃくちゃ楽しくなってくるんだよね」

 

上述、2.芸人型 に相通じるのですが、この描写には、3.アドレナリンジャンキー型にはとーてーありえないプロセスが見られます(イーヴル・クニ-ヴルみたいな、バイク?でグランドキャニオンジャンプしようとした芸人アドレナリンタイプみたいな人もいますが)。

もう一人の自分が冷静に、馬鹿な自分を「馬鹿だ」と認識した上で、その冷静な自分をも笑わせよう、とする、3段階構造とでも言いましょうか、そこには、

1.馬鹿やってる自分 と、

2.馬鹿な自分を見つめる自分、に加えて、

3.観客とも言うべき、楽しむ他者

を介在する、コムズカシク言うならば、弁証的ハイパー「客観」が存在しています。

 

そして、この記事の締めを5歳さんは、こうなさっています。

 

「普通はしない馬鹿みたいな選択が、日常を非日常へと変えて人生を豊かにするのではないかと僕は考えている。」

 

この、「人生を豊かにする」馬鹿さ、とは、ハイパー客観とでも言いたい、弁証的プロセスを伴う、「物語る馬鹿」さなのではないでしょうか。

 

2.「物語る馬鹿」は、1.正統的、生存本能に従い、ピンチを乗り切る楽天家、や、3.アドレナリンに翻弄され、客観性を失ったジャンキー馬鹿

とは一線を画します。

 

前置きがすっかり長くなりましたが、ここからが本題です。

 

いきなり精神分析論に突入します。

私の大好きなD.W.ウィニコットの最も価値ある貢献の一つとして(他にも色々ありますが)「分析における『遊び』の必要性を明確にした」、ということが言われています。

 

下のリンクでまとめられている論文で、彼は、幼児のおしゃぶりというモノとの関わりに、「遊び」の原点を見出しており、おしゃぶりは、キラキラ「光る対象、主体の貪欲さを刺激するモノ」という描写をしております。

 

http://yokopsy.com/2014/20140413setting.pdf

 

おしゃぶりで「遊ぶ」ということは、乳(母親)からの分離を「楽しむ」ことであると思われます。

 

おしゃぶりは、「乳」の代替物、つまりは「母」の代替物、「自」(今、変換見ていて「児」の方が良いかも、と思ってしまいました。漢字の同音意義って素敵ですね)と「母」との間に存在するモノ、即ち「セルフオブジェクト(自己対象?)」であると通常は捉えられます。

が、ジム・ハーザックという分析家が「ファザーハンガー(父渇望)」という著書で主張された様に、私的には、母親からの分離こそ父親の助けで成されるべき、と信仰しているので、「乳」ならず、「父」との間に形成されるモノでもある。と、言わせて頂きたいところです。

この「乳」と「父」も同音異義で、良い感じ(漢字)。って、すっかりオヤジギャグですね。すんません。

つまり、 おしゃぶりは、対象である、「父」と、「乳」、と、自己を確立しつつある、「児」の狭間に立ち現れるモノ(セルフオブジェクト)であるといえましょう。

 

そして更に、何故か話は進化論へ。

男性を男性ならしめる性染色体の一つ、Y染色体はXよりも短い、つまりは遺伝情報の量でいうと、男性は女性に劣るのです。という論を聞いたことがあります。

「劣る」というと、語弊がありますね。

女性は性染色体をコピーする際に「失敗」があっても、もう一個あるから大丈夫。ですが、男性は、コピーに「失敗」すると、後がない、ということだそうです。だから、男性にしかない遺伝病が存在する。男の方が、幼児生存確率、寿命共に低い、確か、そんな話だったと思います。

 

そんなXがちょん切られただけ、みたいな「弱い」Y染色体を持つ男の存在意義は一体何なのか。それは、「進化の促進」である。

私のすっかり文系な頭でざっくり簡単に言うと、弱いやつはあっというまに淘汰されてしまう男達だからこそ、環境の変化に応じた個体のみ生き残る、という、「自然の選択」の「圧力」がかかり易い、ということだそうです。

 

つまり、種の保存を考えると、(イキナリ5歳さんに戻りますが)ポジティブ馬鹿な男達は、個体の保存という点では、理不尽な選択をしているように見えても、将来の状況がどう変わるか分からないという現実を踏まえると、「次世代の生存の可能性」を広げる上で必要不可欠な存在である。ということに、私の頭の中では、なっております。

 

長くなってきたので、締めに入ります。

 

このブログでは何回か、日本における父親の不在という問題に触れてきましたが、ここにきて、私は日本の理想の父親像を見出だしたように思います。

 

日本の乳、じゃなかった、父は、ずばり、バカぼんのパパなのだ!

 

http://www.dailymotion.com/video/xxsyaf

 

幼い頃、私はとても不思議でした。何故、あんなにどうしようもないバカぼんのパパに、あんなにきれいで常識的で、優しいママがついているのか。

 

バカボンのパパはふざけてばかりいますが、実は天才的植木職人さんで、ママはそこにほれ込んだ。というお話だったような気がします。が、ぜんっぜん納得いきませんでした。

 

が、この「種の保存」観点から捉えると納得です。バカボンのママは、先見の明あり、包容力豊かな素晴らしい女性。男のバカを許容しつつ、駄目なことは駄目と厳しく諭し、(死ぬほどの)無茶はさせない良識ある女性なのです。

 

そして、バカボンのパパは表向きは思いっきり役立たずに見えても、実は手に職ある、いざとなったら頼りになる男のみならず、子供に夢を見させる遊びの天才。母親喪失感なんか子供に感じさせません。

 

ポジティブ馬鹿は、個体としては死ぬ可能性を高めているだけかもしれませんが、馬鹿話を子供達と共有することで、母子分離を楽しみ、自立した次世代を育てるのには欠かせない、つまりは、種の存続の為には欠かせない存在であると言えましょう。

 

なんて。突拍子もない連想にまかせて徒然考えてばっかいるから、まぢめな論文書けなくて、うだつが上がらないんですよね。私ってば。(泣)

父親不在の記事はこちらでございます。

 EDと、父親不在と、村上春樹 - 精神分析のススメ

ハゲもヒゲも駄目ってどういうことよ?

日本の男性は、母親回帰願望が過ぎて大人の男になれない、と言う話を何回かしてきましたが、この男性全身脱毛の話、怖すぎです。

 

https://gorilla.clinic/cms/informationnews/horie_shibata_taidan/

 

スポーツ選手がつるつるだと効率良い、とか、芸人が話題をとるために、とか、堀江さんが髭そる時間も惜しい、って言うのなら納得できますが、美意識、となるとちょっと怖い。日本男子の草食化とか言ってますが、それって結局は髪の毛ふさふさ、ほっぺはつるつる男の子回帰願望ってことじゃあないですか?全くもって恐ろしい。し、哀しくなってしまいます。

 

学生時代、ギリシャ人の友達が、20台前半という若さでカッパ禿げてて、てっきり30過ぎていると思い込んだ私がとても失礼な発言をしたら、「僕は頭をいつも使ってるから、早く禿げたんだ」と、堂々とおっしゃりました。

 

(ちなみに、彼は、現在世界で理解できる人が20人くらいしかいない、と言われている「ひも理論」を説く最先端の理論物理学者として活躍しておられます。私のような、下々の者とは比べ物にならないくらい頭を酷使しておられます。が、相変わらずカッパさんで、つるつるにはならないようです。ということは、どれだけ頭を使っているかは、禿げ度には関係ないのでは、という疑惑に駆られますが流石に深く追求することは避けております。)

 

自分のハゲに対する偏見を恥じ入ると共に、彼の禿げている事に対する卑屈感がまるでないことに、格好良すぎる、と感服したのですが、今回の某政治家の「ハゲ」暴言といい、日本人のハゲに対する否定的感情っていったい何なんでしょう。

 

www.ikumou-life.jp

宗教(坊さん)に対する嫌悪感なんでしょうかねえ。

 

ちなみに、欧米でもハゲ防止薬、みたいなのは人気です。トランプ大統領も、ハゲ隠しているだろう、指が小さいのはちんも小さい証拠だろう、と揶揄されていますし。ハゲが、「男性性の欠如」と看做されていることは事実です。

 

が、日本のように、子供同士でハゲをネタにいじめる、というのは、聞いたことがありません。

 

www.ikumou-life.jp

やはり、「汚い大人」になってはいけない、という幻想が背後にあるように感じます。(ちょっと気になったのですが、マルコメ味噌の宣伝は今でも坊主頭の少年たちなのでしょうか?)

 

髭について言うならば、欧米人は体毛ふさふさ、ヒゲもじゃもじゃですから、髭の手入れを入念にする方も沢山おられます。紳士の為のおしゃれな髭剃りサロンも見かけます。が、あんまりお手入れされた髭はナルシシズムが滲み出て私は見ていて時折、恥ずかしくなります。

 

アメリカの女性は、無駄毛の処理に余念がありません。糸で眉毛や口ひげを取り除くサロンがあちこちにあります。

 

とはいえ、口元や、脇の下がふさふさしている女性もたまにはおられます。そういう場合は、ヨーロッパの方か、フェミニストオーラががんがん出ているか、で、後者の場合はちょっと引いてしまいますが、基本的には男性も女性も自然体が一番だと思っております。

ので、無駄毛を美しくない、とか、ハゲをみっともない、と決め付けるのは、男女の健全な自己イメージの育成を損なうもの、ひいては、人間性を損なうものとして、恐るべき現象ではないか、と思ってしまうのです。

男はつらいよ、関連の記事(か?)は、下のリンクをどうぞ。

私とそれ 日本人の「自我とエス」 - 精神分析のススメ

EDと、父親不在と、村上春樹 - 精神分析のススメ

続 ED: 去勢 と 回帰願望 - 精神分析のススメ

【性犯罪】をするヤツは性器を切り取っても犯す…

「ティンなんかなくったって性的虐待する奴はする。」

昔一緒に働いていた方が、言われた言葉です。

彼女は、面倒見は良いし、

頭も良く、機転が利いて、仕事もそれなりにできる方でした…

が、いかにもアレなおばさんで、

自分が主導権を常に握っていることに強烈な拘りを持っていました。

その彼女と一緒にテレビか何か見ていたのだと思います。

「子供を性的虐待なんかする奴等は、

もう2度とそんなことできないように、

性器を切ってしまえ」

みたいなコメントがあって…

私が考えなしに、

「そうだそうだ」

みたいなことを言ったように思います。

 

冒頭の言葉を

能面の様な顔で発した彼女を見て、

ふと、

「ああ、そんな人に性的虐待受けてたんだ」

という考えが過ってぞぉっとしたのを覚えています。

 

アメリカでしばらく前に、

スタンフォード大学の1年生が、

意識のない女性をレイプした事件がありました。

(事件の詳細は以下のリンクをご参照下さい)

http://www.huffingtonpost.jp/2016/06/08/brock-turner_n_10349650.html

 

犯人は、ゴミ箱の裏で、泥酔した女性に跨っていた所を

自転車に乗って通りすがった外国人大学院生2人に

みとがめられ、逃走するも、

彼等に押し倒されて、そのまま通報されました。

犯人もラリっていたのでしょう…

取り押さえられて

薄ら笑いを浮かべていたそうです。

 

目撃者が2人もいて現行犯で逮捕されたにもかかわらず、

前途有望とされた白人のスタンフォード大学水泳選手でもある犯人が

3ヶ月の懲役で釈放されたことに憤りを感じた被害者の女性が

判決時に彼に対して読み上げた文章が

多くの人の心に響き、全米、世界中に論議を醸しました。

 

www.buzzfeed.com

被害者の彼女は、

目撃者も居る「最高のシナリオ」だから

示談で解決がつくだろう、

と予測していたそうです。

 

ところが、犯人は有能な弁護士を雇い

法廷で戦うことを選びました。

 

彼女にその夜の記憶がない、

ということを知った犯人は

当初の証言を覆し、

「性行為が同意の下で行われた」

と主張し始めたのです。

 

法律の不十分さ、

判事の情状酌量の理由付け等が

政治的問題として取り上げられましたが、

私が一番問題だと思ったのは、

アメリカの法廷のあり方、

加害者側が自己弁護の名の下に、

被害者の人となりを疑う方向性で

質疑応答をすることが赦されること…

 

そして、そのことに対する批判がなかったことです。

 

被害者には

「何歳ですか?」

に始まる加害者の弁護側の口頭質問で、

体重、

その日の食事内容、

何を飲んだ?

水も飲まなかったの?

いつ飲んだ?

どれだけ飲んだ?

飲み物はどの様な入れ物に入っていたの?

誰に飲み物を貰った?

普段はどれだけ飲む?

誰にパーティーまで送ってもらった?

何時に?

正確にはどこで?

服装は?

何故そのパーティーに行ったの?

パーティーに着いて最初に何をした?

本当に?

何時に?

このラインはどういう意味?

誰にラインした?

いつ排尿した?

どこで排尿した?

外で誰と排尿した?

携帯はオフだった?

電源切ったことは覚えてる?

本当に?

だけど、53ページにはオンだったって書いてあるね。

大学では飲みに行った?

かなり遊んでたって言ったよね?

飲みすぎて記憶が飛んだことは何回あった?

サークルで飲んだことは?

彼氏とは真剣に付き合ってた?

性交はしたの?

いつから付き合い始めた?

浮気を考えたことはない?

浮気をしたことはある?

(彼氏に)ご褒美をあげるってどういうこと?

何時に起きたか覚えてる?

カーディガンは着てた?

そのカーディガンは何色?

他に何か覚えていることはありますか?

ない?

… 

では、被告(=犯人)の話を聞きましょう。

 

という感じの質疑応答が1年に渡って続いたそうです。

 

被害者や、目撃者の信憑性を如何に損なうか、

という心理操作のプロである弁護士と、

1年間、犯人側は密に連絡を取り合うのです。

 

有罪判決が出た後の声明でも、

犯人は指での挿入に被害者の女性が言葉で同意した

と述べています。*1

 

犯人の父親は、

息子が一時の気の迷いのせいで

奨学金も辞退し

スタンフォードも自主退学

水泳選手としても二度と活動できず

充分社会的制裁を受けて

苦しんでいる

情状酌量を請いました。

 

この父親の手紙も又

 

無抵抗な女性を傷つける罪を犯した

という意識が見られるどころか

自分達が被害者面*2

 

と、批判の的となり炎上していましたが…

 

性犯罪を法で裁くのが難しいのは、

性行為が、双方の同意や、愛情に基づいたものでなかったこと、

暴力的な行為であったことを証明することが難しいこと

に尽きると感じます。

 

性交中の「同意」は、

理性や、言葉に因るものではありません。

初めは「同意」していても、

途中で「やっぱりだめ」ということは、

男性、女性を問わず起こりえます。

求め、求められる実感の交流があってこそ、

幸せな結合を体現し得るからです。

 

濡れていない女性に挿入することにより、

男性も不快や、痛みを感じます。

 

スタンフォードのケースでは、

女性の膣内には泥、枯葉、と共に、

裂傷があったそうです。

 

犯人は、同意があったと主張しますが、

泥だらけの指を女性の内部に挿入し、

傷を付けることが暴力的でなくて何なのでしょうか。

 

犯人は全く動きのない女性に跨って激しく腰を動かしていた、

と目撃者の2人は語ったそうです。

目撃者の男性の一人はその情景に取り乱し、

泣き止むことができず、

警察の事情聴取に応えられなかったそうです。

 

私の憶測ですが、この方達は当初、

被害者の女性に息がなかった

と思ったのではないでしょうか。

 

薬物の影響とはいえ、

全く反応のない相手に性的に興奮できるということは、

言い換えれば、欲望や愛情で繫がるはずの性交の相手に

意思がある方が邪魔ということでしょう。

 

そう考えると、犯人の男性は

自分が愛され、求められることについて、

恐らく恐怖心とも言える程の

葛藤を抱えていたはずです。

 

自己弁護の権利というのであれば、

被害者を攻撃するのではなく、

加害者が如何に他者の痛みに目を閉じる必要性を感じなければならないのか、

という点に注目するべきです。

加害者が如何に人として欠けた存在にならざるを得なかったのか、

という点を明らかにした上で、

そのような人間が今後、

如何に他者の痛みを慮りえるのか

を模索するべきです。

 

真の罪悪感や、贖罪は、

自分の大切なモノが失われた

喪失感を乗り越え

他者を思いやり、愛する過程でのみ、

派生する物なのですから。

 

自分の感情に鈍い人は、

他者の感情を敏感に察知することなどできません。

 

犯人の父親の手紙は鋭い批判の対称になり炎上しましたが、

 (父親の手紙と、それに対する批判の手紙の日本語訳は以下のリンクにあります)

http://watanabe-yo.sorairoan.com/?eid=27

 

私は母親の手紙を読んで、吐き気をもよおしました。

ニュースなどで話題にならなかった為、

日本語訳がありませんが、

びっしり3ページ半に渡って、

如何に自分の息子が天使の様に、素晴らしかったか

自分達の幸せな家庭が一夜で真っ暗闇になってしまったかが、

綿々と書き綴られています。

 (母親の手紙の原文のリンクです)

http://pics.mcclatchyinteractive.com/news/nation-world/national/article82960937.ece/BINARY/Letter%20from%20Brock%20Turner's%20mother

 

彼女は、息子が水泳に懸ける情熱、競争心について、こう書いています。

 

「彼を指導したコーチは口を揃えてこう言います。『指導できる子だ』って。指導に従い、常に上達しようと努力を怠りません。(中略)彼は自分にプレッシャーをかけ、神経質な胃を持っていました。競泳の前に吐いた事も何度もありましたが、吐いた後はいつも良い成績を上げることができたようです。コーチは心配しましたが、彼は(吐くことで)上手くやっていたようです。

 

(主人)も私も決して無理強いしたことなんてありませんでした。息子は水泳を情熱的に愛していたのです。」

 

言い換えてみれば犯人の母親は

「息子はコーチ(親)の言う事を

よく聞く良い子です。

他人は心配しましたが、

私にとっては

(勝つためには)

息子が吐く程のプレッシャーを

自分にかけることなど

何の問題でもありません。」

と、誇り高々に公言できる母親なのです。

 

自己愛充足の為には子供の痛みや

苦しみを平気で無視できるどころか

誇らしげに自慢さえする

自己中心的な欺瞞を、

犯人も母親も「愛情」と思い込んできたのです。

 

長くなってしまったので、

何故そんなことになってしまうのか、

という精神分析的SM理論は

ざっくり省かせて頂きますが

私的には、そんな母親を持つ犯人が

死体相手に勃起する男になってしまったのも、

仕方がないと思ってしまいます。

(ちなみに、弁護側からは、

「寒かったから勃起した」

という、中々おちゃめな釈明があったそうです。)

 

犯人の家庭は自己欺瞞の泥沼地帯と言って良いでしょう。

家族全員が…

そして彼等の友人、知人達が、

彼の暴力があたかもなかったことである

かのように「否定」できるのは、

彼自身が振るわれてきた暴力に、

そして自分達が振るい続ける暴力に

決して対峙しようとしないからです。

 

今回の様な事件があってどんなに批判を受けようとも、

「事件前は全てが上手くいっていた」

という幻想に浸る彼等の自己欺瞞

恐らく解消されるどころか、

更に磨きがかかるのではないかと思われます。

 

アメリカには、

一回でも性行為の初めに同意すれば、

始まってから相手が暴力的になろうが何だろうが、

性犯罪として認められない、という法律もあるくらいです。

 (以下のリンクは昨日のニュースでした)

http://www.wcnc.com/news/local/nc-women-cant-back-out-of-sexual-intercourse-once-it-begins-law-states/451522770

 

女性が性的に挑発するから

男性が勘違いして、性犯罪が起こる、

と真剣に信じる女性もいます。

そういう人達が性犯罪加害者側に共感し、

彼等を支援するからです。

 

それとは真逆の立場には

犯人が釈放された日に家の前で、

「性犯罪者は射殺せよ!」

というプラカードと、機関銃を持って(る人は一人だけだったそうですが)抗議する人達もいたそうです

どちらも、とっても怖いです。

 

性犯罪の刑罰を重くすれば

犯罪者たちは躊躇する、

という理屈は、

裏を返せば、

見つからなければ(捕まらなければ)何でもやる、

ということです。

 

性行為が快感である、

ということは、

愛し合っている、

求め合っている、

という高揚感があればこそ…

 

性行為を搾取し、暴力的に強制する男性は、

自らが、歪んだ愛情、壮絶な暴力の享受者でもあったということです。

その暴力はしばしば「母の愛」という名前で

上書きされているのです。

 

そのことに目を閉じたまま

男女差別や性暴力について語ることは

暴力の連鎖を続けていく選択でもあるのです。

 

ということで、

性器を切り落とそうが、

性犯罪者を殺してしまおうが、

彼等を創り出す人間関係、

ひいては社会的背景をどうにかしないと、

恐怖は増すばかり、

暴力もなくなるどころか、

どんどん陰惨に、凄惨になるでしょう

ということが言いたくて、この記事を書きました。

 

ちなみに、この事件に私が思い入れたのは、

犯人のブロック・ターナーの家庭環境を思い巡らすうちに、

何故か神戸連続殺傷事件の酒鬼薔薇聖徒君のその後が気になり、

日本のネットを開くきっかけにもなったからなのです。

neofreudian.hatenablog.com

全く異なる生育環境、犯罪ではありますが、

双方とも、自分のエゴを見定めることなく、

子供に理不尽な要求を押し付け、

自分勝手な愛情を注いだことを

自己肯定しかできない親…

そしてそんな親に対して、

社会が、ご近所が

「何かが歪んでいる」

というメッセージを、

彼等に受け入れられる形で伝えられなかった、

という共通点があるのではないか…

と切に感じます。

 

性犯罪...と言うほどではないのかもしれませんが、関連記事、こんなのもあります。

性欲オンリーなチャラ男には理性がない? - 精神分析のススメ

 

*1:これに対して、被害者の女性は

手紙の中で、

挿入に言葉で同意する女がいたら会わせてみろ!

的なコト言ってますね…

全く同感です

*2:この「罪悪感どころか自分が被害者」反応は

日本の山口氏とほぼ同じ反応であると言えましょう

トラウマ その2.

前回、トラウマ解消について、いくつかの提案を致しましたが、ちょっと考え直しています。

 

neofreudian.hatenablog.com

手直しを始めたのですが、やっぱり補足することにしました。

 

トラウマというのは、「自分ではどうしようもなかった状況」という理不尽さを伴います。

戦争や、自然災害によって起こるトラウマなどは、最たるもので御座いましょう。

対人関係においても、「トラウマがある」という方々は、例えば強姦に遭う、様々なハラスメント、暴力に遭う、といったことに対して、「何で私がそんな酷い目にあわされなくちゃならないの?」という、答えのない問いを心のどこかに抱き続けているはずです。

上野様を例にとってみましょう。

【お悩み相談第5回】嫌な記憶の忘れ方 | ブログでしかできない話

からの引用です。

「昔の話になりますが、私は小学生の頃、上級生から目を付けられておりました。殴られたこともアザを作って家に帰ったことも御座います。

 

ですが、当時の私は『トラウマ』という単語を知らなかった。これが幸いだったと思います。

 

『上級生に呼び出され、数人に囲まれて、意見を変えなければ殴ると脅されたときの恐怖』を私はもう覚えておりません。そんな抽象的で意味が無くイメージしにくく覚えにくいものをいつまでも覚えているはずがないのです。

 

呼び出されたという『事実』は具体的なので覚えていますが、その時の『感情』という抽象的な存在は覚えていない。」

上野様にとって、この経験がトラウマにならなかったのは、彼が「トラウマ」という言葉を知らなかっただけではない、と感じるのは私だけでしょうか。

彼の、『上級生に呼び出され、数人に囲まれて、意見を変えなければ殴ると脅されたときの恐怖』という描写には、「自分に確固とした意見があることが、上級生に暴力を振るわれる原因だった」という彼にとって「納得」のいく理由付けがあるように感じられます。

「感情」は覚えていない、という点で、抗トラウマ防衛が働いている可能性はあるものの、上級生の暴力に対して、戦う意思を持ち続けることができた。「勝った」又は、「上手く自己主張できた」という実感を異なった形で、実現し続ける、自分を更新し続ける原動力にしている。

という点で、彼の記憶は「理不尽な反復」にはなりえません。戦うこと、自己主張することを、暴力の危険を覚悟で選んでいる、という立ち居地を取っておられるからです。

トラウマを持つ方々には、理不尽な暴力に対して、上野様の様に「納得のいく」理由付けがありません。

例えば、愛してくれているはずの親に、暴力を振るわれる。否定される。親の行動が全く理解できない。「毒親」と、名前を付けた所で、親の、そして、自分の暴力や、破壊的衝動は納得できないモノのままなのです。

「繰り返しの衝動」は、この「納得できない」モノをどうにか治める為に発動すると、私は考えております。

幼少期の親との関係性がトラウマになっている、という方々と親密になることは、自分が暴力を振るう立場になってしまう、又は、振るわれる立場になる、という大きな危険を孕みます。

 

「納得できない暴力」を克服する為に必要な通過地点だからです。

 

「納得できない」と感じる何かを察知したら、決して無視してはいけません。小さな「納得」努力を一々していないと、トラウマによる破壊的衝動はどんどんエスカレートしていきます。

相手との密なコミュニケーションも良いのですが、責めたり責められたりで辛くなってしまうことの方が多くなってしまうかもしれません。お互いが、何を恐れているのか、何に不安を感じるのかを理解しあうことを目的に、お互いを大切になさってください。

ブログに吐露するのも効果的なのかもしれません。と、色々な方のブログを読んで感じます。

が、やはり、信頼できる心理療法士にお話しするのがお勧めです。

 

「克服の幻想」を実現するには、それなりのリスク、痛みが伴いますので、覚悟してお臨み下さい。ということが一番言いたかったのです。

トラウマ

について

フロイトの「快楽原理の彼岸」という論文があります。

 

フロイトが、「タナトス」という

「リビドー」に相対する衝動を

初めて打ち出した論文なのですが…

当地のメンヘル業界内では、

「臨床に生かせない」

「ザル(お野菜なんか洗う時に使うやつです)な論理や」*1

と、めっちゃ評判が悪いこの論文

私は大好きなのですが

それについて書こうとしたら

もう、さっぱり訳わかめになりました。

 

ので、あきらめて。

 

元々上野さんの良記事に触発されたので、

「トラウマが消えなくて困っている。」

という問題に集中してみようと思います。

ueno.link

 

まず、トラウマというのは

消えない傷だからトラウマなのです。

 

車をお持ちの方ならご存知でしょうが

一度事故や盗難にあうと、保険金が上がります。

交通違反とかなら分かるけど

不可抗力*2なのに理不尽です。

が、

事故や盗難に一回遭うと、

同じ様なことが起こる確立が

(無事故な人に比べると)上がるそうです。

 

不注意だから。

 

という理由付けをするのかもしれません

が、

私は、「トラウマ」の理論だと思っております。

 

不運に遭った人は、それを

「克服できた(=傷が癒えた)」

という実感がない限り

その記憶を

「完結」した物語として

「オサメる」ことが出来ない限りは

同じく「理不尽」な不運を惧(おそ)れ、

繰り返すことになるからである

と理解しております。

 

では、その「克服できた」という実感は

如何に得られるのか。

 

「繰り返そうとする衝動」を

どうしたら解消できるか。

ということを様々な心理療法

精神分析や、トラウマ専門の治療では

試みるのです。

 

ということで…

下手に素人が名前なんか付けてしまうと

にっちもさっちも行かなくなってしまう

という上野さんのご意見

全くもって、御尤もで御座います。

 

以下、精神分析的トラウマ対処を

ざっくり説明させて頂きます。

 

「如何にトラウマを克服し得るか」

 

に焦点を当てているので、楽観的です。

 

トラウマ その2.も

是非とも併せてお読み下さい。

 

とある分析家が講義で、

PTSD(トラウマ後のストレス障害)の原因となった

『現実』の出来事以前には

必ず個人的な妄想や、幻想があったはず。

その幻想こそが一次的要因で

『現実』の出来事はPTSDを患う

きっかけにすぎない」

というよーなことを言っていました。

 

「成る程ー」

とは思ったものの、彼女の言わんとするところが本当に

「分かった!」

と感じるまで、実はかなり時間が掛かりました。

 

例えば…

「死ぬのが怖い」

と思って戦場に臨んだ兵士が砲撃にあって生き残る

すると、それがトラウマになります。

 

「撃たれても生き残った」

という現実を陵駕する

「撃たれたら死ぬ」

という恐怖や、幻想がそれ以前に強くあると

「撃たれたのに生き残った」

という現実が入り込む余地がない

ということなのかな…

と、

(もしかしたら全く異なる

意図での発言だったのかも

しれませんが)

かなり後になって実感しました。

 

故に、「撃たれたら死ぬ」恐怖を繰り返す。

 

「生き残った」実感が得られず、

「撃たれる(攻撃される)のが怖い」

又は、

「自分はあの時死ぬべきだった」

という気持ちに固執してしまう。

 

その無意識的(又は意識的)

「繰り返しの衝動」が

トラウマを形成するのです。

 

「死ぬのが怖い」

なんて、全ての人が抱くものだ。

といわれるかもしれません。

が、個人的に抱く「死の恐怖幻想」は、様々です。

 

個々人の持って生まれた性質に加えて、

生後間もない幼児期の体験によって色づけ、

形付けがなされるものだからです。

 

トラウマと言う言葉が

元々は、帰還兵の生死に関わる恐怖体験を

意味するものだったにも関わらず、

対人関係のトラウマにも

当てはめられるようになったのには、

精神分析の理論に因る所でありましょう。

 

というのも…

精神分析では、幼児期の

「おっぱいが口の中にない!」

という体験を、

「どうしよう!死んじゃうー!」(絶望)

とか、

「生きてられへんやんか!どうにかせー!」(憤怒)

という

生死に関わる幻想の根源

としているからです。

 

子供を見ていると時々、

「なんでこんなくだらないこと

(ぬいぐるみがふとんからおっこったとか、

擦りむいてちょっと血が滲んだとか)

で生きるか死ぬかみたいな迫力で怒ったり、

怖がったりするんだろう?」

って、思うことありませんか?

 

オトナにとっては、些細なことでも

子供達にとっては生死に関わる一大事なのです。

 

子供達の「生死に関わる一大事」を

「コワかったね」

「痛かったね」

「でも、もう大丈夫」

 

 

回復の過程を「共有」してくれる

「誰か」を心に抱くことで

私たちは

危機を乗り越えて生き延びる確信

メンタルの強靭さ

を獲得出来るのです。

 

「一大事」に直面した時…

「あら、そんなの大したことないじゃない」

とか

「そんなことで泣くなんてみっともない」

と言ってしまう「誰か」を心に抱える人は

「一大事」に直面しても

誰も「分かってくれない」

「1人でどうにかしなければならない」

不安や恐怖や憤りを抱えることになります。

 

トラウマの種類にもよりますが

オトナになっても

トラウマ的に苦しい状況を繰り返される皆様には

イキナリ精神分析はオススメできません。

 

「認知行動アプローチ(DBTがオススメです)で、

トラウマ対処法を身につけた上で

興味がおありでしたら是非とも精神分析をお試しください。」

と言いたいところです。

 

古き良きフロイト教授の時代とは異なり、

「無意識の衝動」を、意識化するだけでは

「衝動」に打ち勝つことは難しいことが

明らかにされてしまいましたからね。

 

「トラウマに精神分析は効かない」

という批判は横においといても、

いきなり自由連想法

トラウマ眩想にアタックしていくのは

大きな危険を伴います。

 

自身の不安や恐怖の根源にある幻想に

立ち向かおうとすると

じっとしていられないくらい

掻き立てられ、

信じられない程

強烈な感情が湧き上ってきたりして

どうしようもなくなってしまうことも

ままあります。

 

まずは、それを

「一緒に乗り越えてくれる」

という信頼感を抱ける相手

(治療者に限ったことではありませんが)

をじっくりお探しください。

 

又は、そのような信頼関係を

作り出そうと試みることです。

その過程そのものが、

トラウマ解消への第一歩になり得ます。

 

それから、次にトラウマ的出来事に遭遇なされた時には、

ここがチャンス、正念場

と心構え

「克服感」を抱くためには、

トラウマという「繰り返しの衝動」から抜け出す為には

ご自身がどの様に振舞えばよいのか…

どの様な「結末」をトラウマという「終わりのない幻想」に

与えなければならないのかを

じっくりお考えになっては如何でしょうか。

 

そして、誰かに

「トラウマに苦しんでいるの」

と告白されたら、

「そんな辛いことがあったんだ、大変だったね」

だけでなく、

「どうやって乗り越えて生きてきたの?」

「どこからそんな強さが出たの?」

と、彼等が「繰り返しの衝動」を乗り越えるべく、

「克服の幻想」の可能性をより大きく膨らませる過程に

寄添ってみては如何でしょうか。

 

トラウマは、消すことはできませんが、癒すことはできるのです。

neofreudian.hatenablog.com

*1:しっかし、そんなん言い始めたら、彼の理論全部ザルちゃうか?

と、正直なところ、私は思ってしまうのですが

*2:「悪い」相手がいると保険金は相手が払うので、話は別ですが

ラブホの上野さんがウケるワケ 

恋愛赤ペン先生、いつも「成る程!」と思います。

誕生日おめでとうLINEを送る男の意図【恋愛赤ペン先生】 | ar(アール)web

長い記事も、知性溢れていて素敵です。

【お悩み相談第5回】嫌な記憶の忘れ方 | 上野のブログでしかできない話

(最近日本ではホットなのでしょうか。フィボナッチ。)やられました。こんな形で引っ掛けてくるなんて。

はっきり言って、格好良過ぎです。

 

彼の魅力は、断定的な口調に如実に表れる、揺ぎ無い自信、鋭い洞察力、深遠な知識、等々ありますが、ずばり、クール、という表現がぴったりです。

 

昨今珍しい、甘えないオトコです。

 

甘えないオトコは、自立しています。

 

母親のキチガイじみた愛情、束縛を断ち切るためにさぞかし壮絶に戦われたことでしょう。

 

ueno.link

 

彼のいう、「牙の生えた男」は、「戦う意思をもち、自分一人でも進むことを覚悟した男」です。

 

【お悩み相談第25回】共通点と相違点 | 上野のブログでしかできない話 - Part 4

 

「牙の生えた男」は、誰にも頼らず、自分以外は敵とみなす、という点で自己愛性の被害妄想をも想起させます。

 

それでもモテるのは、彼らが自由に生きるリスクを背負っていて、そこに皆が憧れるからだ、と上野さんはまとめておられます。

 

それでは、彼等がリスクを負える揺ぎ無い自信とは何処から来るのでしょうか。

キチガイじみた母親の愛情を、断ち切ることができたからだと、私は憶測します。

この、母親の愛情が、重荷でしかなかった場合、自分を歪めるものであった場合、「戦闘狂」で「馬鹿」な、ギャンブラーは、他人の気持ちを顧みず、冷酷無慈悲です。疑心暗鬼に陥り、自己を充足させてくれるはずの対象を恨みこそすれ、有難く受け容れられない「ギャンプラー」達には、失うモノは何もありません。このやけっぱち状態が、自信と摩り替えられてしまうことも、ままありましょう。

 

が、上野さんは、決してそうではありません。

 キチガイになるざるを得なかった母親を見つめ、その愛情を充分に享受することにより、断絶の哀しみを受け止め、繫がりを回復することができるからです。断絶に慄き、回帰幻想に浸る自己愛性PDを患うことなく、真の自分を見出すこと、自己の確立が可能になるからです。

所謂ポストフロイディアンな精神分析境界例の理論によると、対象(母親)を全否定することなく、等身大で受け容れた上で、自他の断絶の痛みを通過される方々は、自信に満ちていながら、愛情深く、優れた許容力を有するとされています。

この点は、上野さんの「普通の人」に対する共感度の深さに表れているでしょう。

 

「『普通の人』だって…最初は意見の対立を恐れていなかったはずなのです。しかし、…環境がそれを赦さなかった。意見をすることも、主張することもできなくなってしまったのです。」

 

この「環境」とは、全てを包み込んで、自他の区別を無きものにしようとしてしまう、迎合を強要する「母親的な」日本社会の原理と言ってもよいでしょう。

 

母親的な原理から離脱する確固たる強さを持ち、そこから離脱することに対する全ての責任を負えるということは、それに伴う痛みを十全に受け止められたということなのではないでしょうか。だからこそ、迎合する「普通の人」達に対する理解と優しさを失わないでいられるのではないでしょうか。

 

上野さんには、女性の知恵袋として、又、男性の憧れ、同一化の対象として、末永く頑張って頂きたく存じ上げます。

 

ラブホの上野さんネタの記事

neofreudian.hatenablog.com

neofreudian.hatenablog.com

日本の男性諸氏へのメッセージ、以下の記事もご参照下さい。

私とそれ 日本人の「自我とエス」 - 精神分析のススメ

EDと、父親不在と、村上春樹 - 精神分析のススメ

そして、去勢というえげつないテーマですが、

続 ED: 去勢 と 回帰願望 - 精神分析のススメ

ラブホの上野さん と 性同一性:【ズートピア】は「勝つ」か「負ける」か…弱肉強食の世界? 

いつも、斬新な切り口で悩み相談をバシバシと片付ける、上野さんの文章、楽しく読んでいるのですが、このLGBTの方のご相談に対するお答えを、勝ち負けにからめておられることに、違和感を抱きました。

 

ueno.link

結論的には上野さんと同じです。勝ち負けを軸に偏見を捉えるのも、御尤もですし、上野さんのニーチェの絡め方もグッとくるのですが、私的にはズートピアについては全く異なった見方をします。ということで、お読みください。

 

まず、私のアンポンな頭では、ニーチェは理解不可能なのですが、ズートピア見て、泣けました。子供騙しにちょろっとこまされて、大変お恥ずかしいのですが、大好きな映画のひとつでもあります。

 

ネオフロイディアン板ズートピアあらすじ

(上野さんの様に、すっきり短くできませんでした。)

 

肉食獣(=強者)のキツネは信用できない苛めっ子?

幼い頃、草食獣に虐められ、

偏見に傷つき詐欺で金儲けするようになったキツネ。

小さなウサギ(草食獣=弱者)は警官になれない?

獰猛なライオン(肉食=強)はヒツジ(=弱)をいじめる悪者権力者?

草食獣は肉食獣と相容れないのか?

そんなことない!

復讐心に燃えるヒツジが黒幕だったことを、

草食獣は肉食獣の協力を得て、暴いた!

一件落着、大団円。

(そして、怠け者は…やめとけって。自分で突っ込んでみました)

 

という展開で、弱肉強食というテーマは根底に流れてはいる物の、

大衆心理操作による偏見や、暴力だって、

個々人の繫がりを回復することで克服しちゃうぜ!

という大変アメリカンで、楽観的結末となっております。

(私が個人的に抱いているニーチェの印象とは、対照的でございます)

 

LGBTQ(最近では、クイアーという、ゲイと何がどうちゃうん?と、私にもちょっと解説不可能なグループが、私等も入れろ、と言うことで最後にQが付け足されるようになったそうです。)を、弱者と見る点も、文化的背景を考慮すると一面的だと感じました。

 

ゲイと芸の関わりは深く、

LGBTQは、ちょっと特殊な「憧れの人達」という立ち居地もあるからです。

アンディ・ウォーホル(ゲイ)や、フリーダ・カーロ(バイ)の御乱交、

宝塚や、ジャニーズ事務所にまつわる、まことしやかな噂などが、

最たる例で御座いましょう。

日本では得に、織田信長等、ゲイと権力者

という親和性も見逃す事ができません。

 

これを踏まえた上で、迷える若者が

「自分はもしかしたら、ゲイ?」

と思い込むのは、

「自分はもしかしたら特別?」

と思いたいことの現われとも捕らえる事ができましょう。

 

「私はゲイです」と宣言して、同姓愛者と恋愛関係になり、

実は異性にも惹かれる、と告白すると

「何だ、バイか」

と、拒絶されてしまう、

かといって堂々と、

「私はバイです」

と言っても、

「何だ、そんな中途半端な気持ちなのかよ」

と、門前払いを受けてしまう。

LGBTQ最先端を走るアメリカでも

中高年層の方々の間では、よく聞く話です。

 

話が逸れますが、

(私流の解釈ではコスモポリタンで中性的とでも言いましょうか)

メトロ(セクシャル)がヒップ(流行?)な若者世代では

異性愛と同性愛者の境が曖昧になってきている

という説も御座いますが、

これは、ごく一部の都会での話なのではないか、

というのが私の印象です。

 

アメリカでも田舎では特に、強弱、勝ち負けという、

権力構造が、ゲイや、有色人種といった

少数派に対する偏見に大きく関与していることは

トランプ大統領の支持率が高いことからも、明白な事実でしょう。

 

ご質問全文読ませて頂きました。

ご自身のセクシュアルオリエンテーションについて、

周囲の偏見について、

そして、何よりも

恋愛をしたい、親密な関係を作りたいのにそれが困難である、

といった、様々なお悩みが錯綜しておられると感じました。

 

最初の一文、

「私がご相談したいのは、私は何であると名乗ってこれからを過ごせば良いか、ということです。

自分がバイか、ゲイなのかが分からない、ゲイと公表しておかないと、ゲイの女性とのお付き合いができない。

ということですが、私にしてみれば、

「名乗る必要性は本当にあるのですか?」

とお伺いしたいところです。

悩み相談なのに、全く役に立たない返答で、

こんなことには向いていないのが、丸出しですね。

 

同性愛なんて気持ち悪い、

と幼少時は思っておられた、ということですが

実はゲイの方にもゲイに対する偏見や、嫌悪感を抱く人は

めずらしくありません。

「同性愛など気持ち悪い」

と連呼される御両親をお持ちなら、尚更です。

 

思春期以降、20代までは、アイデンティティーの確立、

それから40代までは親密な関係を築くこと

が発達過程上での課題になると、

エリクソンは心理社会的発達論で述べております。

 

まだ20代前半の相談者様が、

御自分の性的嗜好(セクシュアルオリエンテーション)に迷いを感じ、

そのことで、自己同一性(アイデンティティー)が揺るがされていることも、

発達過程上、妥当な年齢であると思われます。

だからこそ、

「同じ悩みを抱える人達と心境を分かち合いたい」

と言う気持ちを抱くも至極当然でしょう。

 

「私が異(同?)性愛者かもしれない、という話題は男性にとても受けます。

ということですが、

女性が性に関するトピックをオープンに話すということは、

男性にしてみれば、

「私をオンナとして意識しないでね。

あんたなんか、欲情の対象にはならんからね」

といわれるようなもので、心地よい距離がとれる、

又は、真摯に対応しなくても良い、

ということではないでしょうか。

 

発言者の性別に関わらず、

「あなたに欲情する可能性があります」

と言われて、嬉しい女性はあまりいないように思われます。

どちらかといえば、恐怖感を抱く

可能性の方が高いのではないでしょうか。

どちらにしても、女性と親密な関係を持ちたいのであれば、

公言するメリットはあまりないような気がします。

 

不安や、焦りも感じられているのかもしれませんが、

「恋愛をしたい」というのであれば、

自分がゲイかバイかということに固執するよりは、

御自分の「この人が好き」という気持ちを大切に、

相手と心地よく一緒に過ごせる時間を作ることが

最重要のように思われます。

 

迷いを抱く御質問者様に、

「男でもいけるかもしれないのに、私を選んでくれたことが嬉しい」

と思えず、

「男でもいけるってこと?…ちょっと無理」

と、拒絶する彼女もアレですが、

御質問者様自身も、何故そんな彼女と親密になられたのでしょうか。

「パイ」であることが分かったから

拒絶されてしまう様な関係性は

所詮その程度のものだったのではないでしょうか。

 

恋愛とは、拒絶されてしまうことなど恐れていてはできません。

ゲイ、バイ、異性愛と分けてみたところで、

恋愛関係において、

お互いを求め、

想いあい、

労わり合える関係を造り出すことに於いては、

何ら変わりは御座いません。

 

ご質問者様が、同性愛者の女性に魅力を感じるのであれば、

彼女達が集まりそうな場所、イベントに参加するなど、

「私も同性愛者です」

と名乗りを上げなくても

出会いを求めることは可能ではないでしょうか。

常識に縛られず、独創性の強い、芸人な方々と

交友を深めるのもありでしょう。

 

異性愛者の方が、異性と交際する際に、

「自分は、異性愛者です。」

と名乗る必要が無いように、相談者様も

「自分は…です。」と、カミングアウトする必要性は、

親密な関係を造るという上では重要ではないはずです。

 

ご質問者様の悩みは、

恋愛相手を探すのに苦労する、

と言う趣旨だけではなく、

真剣に聞いてくれる相談相手を見つけるのにも苦労する、

と言うことでしたが、

(ちょっと楽観的ですが)ズートピアの流れで行くと、

本当に仲良くなってしまえば、

愛し合ってしまえば、

相手がバイであろうが、ゲイであろうが

偏見に囚われない信頼関係を持てるはずです。

 

ネットや、講義では同性愛に好意的でも、

リアでは引かれるのが辛い、

というのであれば、

尚更、親しくもない相手に

「自分はゲイかもしれない」

と公言することは避けられた方が無難です。

親身になって話を聞いてくれる友人が見つけられない、

というのは、ゲイ、バイという、

セクシュアルオリエンテーションというよりは、

むしろ、ご自身の人間関係に於ける距離のとり方、

自己承認欲、自己顕示欲のあり方に問題があるのではないでしょうか。

 

カミングアウトしたくらいで、

ドン引きするような人達に傷つくというのなら、

そんな人達とお付き合いしなければ良いのです。

「そんな器量の狭い奴ら、浅薄な奴らはこちらから、願い下げ」

と思えず、どうしても疎外感に悩まされる、

どうしても(理解の無い大多数に)受け入れられたい、

というのであれば、大人しく、大衆に紛れて

異性愛者として生きていく選択をなされることをお勧めします。

 

と言う感じで、結論的には

「安易に他人から受け入れられることを期待してはいけません。

御自分のやりたい、欲しい、という気持ちを貫くには

相応のリスク、対価を伴います。

御自分の選択に責任をお持ちください。」

という上野さんのご意見に全く同感です。