精神分析のススメ

1970年代のNYCで一世を風靡したヒップな精神分析の啓蒙をめざす狂気専門家のブログです。

トラウマ その2.

前回、トラウマ解消について、いくつかの提案を致しましたが、ちょっと考え直しています。

 

neofreudian.hatenablog.com

手直しを始めたのですが、やっぱり補足することにしました。

 

トラウマというのは、「自分ではどうしようもなかった状況」という理不尽さを伴います。

戦争や、自然災害によって起こるトラウマなどは、最たるもので御座いましょう。

対人関係においても、「トラウマがある」という方々は、例えば強姦に遭う、様々なハラスメント、暴力に遭う、といったことに対して、「何で私がそんな酷い目にあわされなくちゃならないの?」という、答えのない問いを心のどこかに抱き続けているはずです。

上野様を例にとってみましょう。

【お悩み相談第5回】嫌な記憶の忘れ方 | ブログでしかできない話

からの引用です。

「昔の話になりますが、私は小学生の頃、上級生から目を付けられておりました。殴られたこともアザを作って家に帰ったことも御座います。

 

ですが、当時の私は『トラウマ』という単語を知らなかった。これが幸いだったと思います。

 

『上級生に呼び出され、数人に囲まれて、意見を変えなければ殴ると脅されたときの恐怖』を私はもう覚えておりません。そんな抽象的で意味が無くイメージしにくく覚えにくいものをいつまでも覚えているはずがないのです。

 

呼び出されたという『事実』は具体的なので覚えていますが、その時の『感情』という抽象的な存在は覚えていない。」

上野様にとって、この経験がトラウマにならなかったのは、彼が「トラウマ」という言葉を知らなかっただけではない、と感じるのは私だけでしょうか。

彼の、『上級生に呼び出され、数人に囲まれて、意見を変えなければ殴ると脅されたときの恐怖』という描写には、「自分に確固とした意見があることが、上級生に暴力を振るわれる原因だった」という彼にとって「納得」のいく理由付けがあるように感じられます。

「感情」は覚えていない、という点で、抗トラウマ防衛が働いている可能性はあるものの、上級生の暴力に対して、戦う意思を持ち続けることができた。「勝った」又は、「上手く自己主張できた」という実感を異なった形で、実現し続ける、自分を更新し続ける原動力にしている。

という点で、彼の記憶は「理不尽な反復」にはなりえません。戦うこと、自己主張することを、暴力の危険を覚悟で選んでいる、という立ち居地を取っておられるからです。

トラウマを持つ方々には、理不尽な暴力に対して、上野様の様に「納得のいく」理由付けがありません。

例えば、愛してくれているはずの親に、暴力を振るわれる。否定される。親の行動が全く理解できない。「毒親」と、名前を付けた所で、親の、そして、自分の暴力や、破壊的衝動は納得できないモノのままなのです。

「繰り返しの衝動」は、この「納得できない」モノをどうにか治める為に発動すると、私は考えております。

幼少期の親との関係性がトラウマになっている、という方々と親密になることは、自分が暴力を振るう立場になってしまう、又は、振るわれる立場になる、という大きな危険を孕みます。

 

「納得できない暴力」を克服する為に必要な通過地点だからです。

 

「納得できない」と感じる何かを察知したら、決して無視してはいけません。小さな「納得」努力を一々していないと、トラウマによる破壊的衝動はどんどんエスカレートしていきます。

相手との密なコミュニケーションも良いのですが、責めたり責められたりで辛くなってしまうことの方が多くなってしまうかもしれません。お互いが、何を恐れているのか、何に不安を感じるのかを理解しあうことを目的に、お互いを大切になさってください。

ブログに吐露するのも効果的なのかもしれません。と、色々な方のブログを読んで感じます。

が、やはり、信頼できる心理療法士にお話しするのがお勧めです。

 

「克服の幻想」を実現するには、それなりのリスク、痛みが伴いますので、覚悟してお臨み下さい。ということが一番言いたかったのです。