はてなの有名人【フミコ・フミオ】さんの夢のような文章
以前にも書きましたが
私がブログにハマるのは、
書き手の自己理解が深まる過程が見えてくる
それにつれて、現実的状況も常に変わり続けるところに
ドキドキワクワクしてしまうからです。
いわば、秀逸な精神分析の事例(ケース)を読んでいる様な
気分になれるからです。
皆大好き(?)はてなの有名人、フミコさんが
先日こんな記事を
書かれました。
泣きました。
朝と夕方、二回読んで、二回とも。*1
ちょっと前の映画ですが、
ダダ泣きできるチョロい私です。
この、フミコさんの亡きお父様に関するしんみりとエモい記事が、
オヤジなシモネタで始まることに意表を突かれたというブコメも
ちらほら見かけました。
が、私は、この始まりこそが意味深く、
如実に表していると感じました。
スーパーヴィジョン(指導面接)では
「最初の5分で一番重要な『マテリアル(素材)』が提供される」
と、折角身を粉にして書いたプロセス・ノート(逐語録)を
全く読ませてくれない大物分析家もいるくらいです。
私には測り知れない文学的な仕掛けなのかもしれませんが…
何はともあれ
始まりはいつも重要です。
フミコさんの文章はいつも
始まりと終わりが、きちんと
おフザケになっている気がします。
(給食系を除く)
以下、私の全く勝手な解釈です。
誤使用による、ダメージがあろうとも、一切責任を負いかねます。
フミコさんは上述の記事でも触れておられますが、
「フザけた人生」を綴ることで
悲愴な現実に、救いや
愉しみを見出し
周囲に笑ってもらおうとすることに
自分の存在意義を見出し
体を張って生きてきた人
と言っても過言ではないでしょう。
それは、おそらく彼が「家族」の中で
御自身に課せられた「役割」
でもあったのでしょう。
恥ずかしい自分をさらけだし、
嘲笑を買うことで
重い空気を少しでも軽くしようと…
し続けてきたのではないでしょうか。
その「恥ずかしい自分」とは、
「ティンを持った自分」
汚い、臭い、オトナのオトコの性欲=男性性=父性
を「持てあます自分」なのだと、
私は常々感じております。*2
「家族に見つからないよう、声をひそめてポニーテールをシュシュする悦びに浸っていたのだ。突然、理由もなくアニマルになったのではない。
…
(悩みが)すっきりと解決し、安心したのだ」
「ポニーテール」という言葉の選択の意義が
気になるトコロですが…
(歌かな?)
「家族」は、奥様だけを指すのではなく、
母親でもあり、もしかすると
父親や弟も含まれるのでしょう…
悩みと不安による焦燥で枯れてしまった欲動が、
安心感で蘇りかけている…
ということだと解釈致します。
一体何が彼の悩みと不安だったのでしょう?
「親父さんに似ている」と言われることが重荷で
「あまりにてない」
という言葉に救われた
フミコさんの悩みと不安は
父親との同一化
だと私は確信しています。
「僕らを待ち構えていた小さな向日葵の黄色と茶色の鮮やかな色彩には、日常に意外が差し挟まれるときに感じる、あの、小さな不吉と不安を覚えながらも、驚かされてしまったのだ。」
「日常に挟まれる意外」は、父親の死のトラウマを想起させる。
それを、「小さな」ものと受け止めることで、
長年驚かされないように努力してきた彼は
予期せぬ「救い」の可能性に驚かされてしまいます。
しかし、それは「不吉」と「不安」を伴います。
庭や動物や絵を描くことが好きだった父親を
自分は拒絶したいのか
赦し、受け入れたいのか
そして、危険な「外」の大人の助けを得て
息子が大人になること
(=父との同一化を果たした上で自己実現できること)
は母親にとって如何なる意味を持つのか…
墓に供えられた色鮮やかな花のミステリーには
何もなかったところに生命が忽然と宿る
子供にとっての最大のミステリー
赤ちゃんはどこから来るの?
を想起させられます。
両親が愛し、睦み合って
自分が生まれてきた
という「現実」は子供にとって
受け入れ難い「真実」でもあり
信じて止まない「願望」でもあります。
理不尽な企業の搾取から無職
というクライシス(危機)を乗り越え
自己実現の実感を手にしつつあるフミコさんなら
ED克服にも着々と王手をかけておられるのではないか…
と感じるエモく、パワフルなエントリーに、
心を揺さぶられてしまったので
…
遅筆な私には珍しく
結構イキオイ良く書いてしまいました。