【インサイドヘッド】感情のパラダイムシフト
しばらく書こうと思っていて放置していたネタです。
かなり昔の映画ですが…
感情、脳神経学、児童発達の学術分野で最先端の情報を考慮して作られた
主人公の女児
ライリーのインサイドヘッド(頭の中)の描写が
専門知識を踏まえていて
うーん、ヤルなーと思ったのですが
…
心理学、精神医学、文化人類学、脳神経学、ナドナドの
欧米哲学を土台とする「感情の存在意義」の大前提が
はたして
文化を超えて日本の一般民間人に伝わるモノだろうか…
と思って
日本語のまとめサイトをちら見してみましたが
…
やはり…
イマイチ分かって貰えてない^^;
ってなったので
書いてみます。
日本人的には 「感情」といえば「喜怒哀楽」と、4つですが
英語では5つの基本的感情(ベーシック・エモーション)
というのが定番です。*1
これが、インサイドヘッドの
「ヨロコビ」
「カナシミ」
「イカリ」
「ムカムカ」(嫌悪)
「ビビリ」(恐怖)
として描かれています。
私のざっくりとした印象では
少なくとも「心理学」では、従来
「感情」= 動物的「本能」の表現
即ち、
生存確率を高める利益在るもの→快→接近
生存確率を低下させる不利益なモノ→不快→回避 又は 戦闘
させることで、個人の「生存」確立を高めるモノ
としての存在意義を確立していました
「怒り」(Anger)は自分に害をなすモノを排除するために(戦闘)
「嫌悪」(Disgust)は毒物を回避するために
「恐怖」(Fear)は危険を回避するために
「喜び」(Joy)は生き延びるために必要なモノを得るために(接近)
と、まあ、分かり易い「機能」が与えられているのですが…
ミルクをこぼしたくらいで泣くんじゃーねーぞ
(Don't cry over spilled milk)*2
ということわざからも汲み取れる
「いつも笑顔でいたい」
絶賛ポジティブなアメリカンにしてみたら
「生き延びるために何の役にも立ってない
『悲しみ』の「機能』って、一体何なのよ?!」
って事なのでしょうね…
とか言って、喪失に美を見出す日本人とは相容れない
メリケンの合理主義的(プラグマティック)な哲学では、
いつまでもメソメソしてると
「悲しみ」=「メランコリー」=「鬱」
って感じであっという間に
「悲しみ」=「病」
にもなってしまう
という側面にも通じるモノがアルと思います。
が
日本語サイトみてたら
やはり
「悲しみがあるからこそ喜びが光り輝く…」
みたいなコトになってて…
おおぅ…
流石は日本人の心に響く「解釈」だが
それはちょっと「違う」んちゃうんか…?
ってなりました。
心理ヲタク路線まっしぐらな私的には
お話のクライマックスで「ヨロコビ」が見出した
「カナシミ」の存在意義とは
…
(日本語サイトの売り文句のように
「あんたみたいな冴えないヤツが居るから私が光輝くのよヽ(^o^)丿」
ではなくて)
「アメリカ心理学における
『感情』の存在意義のパラダイムシフトやんか!!!!!!」
と胸アツになります。
パラダイムシフトってどゆことかというと
哲学の影響色濃く
個人の精神性に注目して発達してきた心理学も
文化人類学(猿の行動)や
遺伝子学等(種の保存)の影響で
感情=個の保存
から
感情=個体間のコミュニケーション=種の保存
へとシフトしてきた。
ってことです。
「ヨロコビ」が「カナシミ」との冒険の果に得たモノは
自分たちの存在意義が
「不快(死)」を排除し「快適(生存)」を得る
功利的(プラグマティック)なモノではなく
(カナシミのお陰でヨロコビがキラリと輝くって訳でもなく)
「共感」を通じて
他者との繋がりや集団の結束を深める役割だった!
という「気付き」だった
ということで
…
欧米心理学の転換に思いを馳せ(ホンマか)
何回観ても涙腺が崩壊します。
「もののあはれ」について語り
分かち合うことで
他者との繋がりを育む日本人的には
「悲しみ」の存在意義が
他者の「同情」や「支援」を誘発し
他者との結束を強める
ということや、
悲嘆に暮れる時には
友人家族の理解が必要で
悲しみを通じて絆が深まるなんて
そりゃ当然。
としかなりませんよね。
と、言うわけでそろそろ1,500字を超えたし
読者も離脱してるだろうし…
私の「考えの列車」*3も減速気味なので…
もー寝ます
お休みなさい