精神分析のススメ

1970年代のNYCで一世を風靡したヒップな精神分析の啓蒙をめざす狂気専門家のブログです。

日本人の【発達障害】及び【コミュ障】の印象がズレてない?という点について

ずっと気になっていたモヤモヤをぶつけてみます。

 

 

このツイートでも書きましたが、

発達障害、特にASD系の人達は

空気読めない

とか、初めて聞いた時には、

ふぁ?!

ってなりました

 

自閉症系の子供の意思伝達は

確かに顕著な問題ではありますが…

それは「話し方がヘン」であったり*1

感情表現ができない、及び、不適切である*2とか、

相手の目を見て話せない*3

とかであって、

相手の言ってることや、感じていることが分からない

という点はあまり重要視されていない印象です。*4

 

つまり、私の抱いている

「コミュ障」のイメージは、

 

自分の思っていることや

感じていることを適切に表現できない人達

 

であり、日本(のSNS)で言われる

 

空気が読めない(から自己表現できない)人達

 

ではないということです

 

これは、日本人にとってコミュニケーションで重要視されるのが

如何に相手を「正確」に、

(時には話し手より「正確」に)

先取りしてでも理解できるか

という点だからなのではないか。

と感じます。

 

私が渡米してから4−5年間

英語で文章を書くに当たって一番消耗したのは

ネイティブ英語話者(原住民)に添削してもらう度に、

「おまえはこの文章で、一体何が言いたいんか、さっぱり分からん」

と怒られまくったことです。

言われて説明すると

原住民:「それは、つまりこーゆーことなのか」

とばかり、ごっそり直されます。

それをされると、こっちとしては、

私:「うーん、そこまで言ってるわけではなくて…」

と、なり…

それを言うと、相手は相手で、

原住民:「そんなんだったら最初っからちゃんと言えや!」

と、更に不機嫌になる。

 

 

一事が万事、塞翁が馬

心の中では阿鼻叫喚…

もー、泣く寸前の修羅場でした。

 

相手も私が感じていた

「そこんとこは、分かれや!そこまできっちり、はっきり言いたくないんや!」

というオーラがビンビン伝わっただろうし

私も彼等の

「そんなこと言われても何がなんやら、さっぱりワケ分からん!」

というイラ立ちをガンガン感じ会っていたからでしょう。

 

日本人の行間を読み込む*5感覚が分からないヤツラは感性が鈍すぎる

と、悔し紛れに思ったりもしましたが…

 

この地獄体験を乗り越えて

出来上がった文章をみると

悔しいけど…

やはり…

「はっきり言い’たくないトコロだけど、何となく分かってくれや」

という感覚が「甘え」に過ぎないことを

がっつり見せつけられて

orz…

となる経験を繰り返す日々でした(遠い目

 

「文法だけ直して下さい」

 

と詰め寄る私に

 

「うーん。まあ。何が言いたいのか分かんないから

そこを詰めてから出直してきて。」

と門前払い(何回かされた)しないで

修羅なお直しに付き合って下さった

先生、同僚、友人諸氏には

感謝の気持ちで一杯です。

 

母親は言葉を話せない赤ちゃんの欲求を

「察して」充たします。

「母子関係に言葉は介在しない」

と言われる所以です。

 

私が感じた「ソコまで言わなくても、分かってや」は、

母親に対して求める受容と充足であり、

「言葉化して、相手に分かるように喋ってナンボ」

アメリカンにとっては

お前はアホか!赤ちゃんか?

と言いたくもなるフラストレーションを

喚起したことと思われます(申し訳なさで一杯です…)。

 

日本には「父」が居ない

と言われるのも、

欧米で求められる話し手の切磋琢磨

(=「わかりやすい」コミュニケーション)

よりは寧ろ「忖度」という、

「言葉にはしないけれど、ちゃんと分かってるからね」的な

聞き手の感受性の洗練が強要される

点にも現れているのだと感じます。

 

言語化至上主義の権化

(と勝手に私が思っている)ラカン様的には

 

母子関係に「父」という「第三者」が介入すると

子供は要求を主張する必要を感じる。

 

ってことだそうです。

 

絶賛私主観のなんちゃってラカン様曰く、

父親の存在は言葉を必要としない母子関係に

「否」を突き付ける

のだそうです。

 

子供の(母親と永遠に繋がっていたいという)欲求に

「否」と言う=規制を与える

のが父親の役割であり

その「否」を突き付ける

絶対的他者(=父)に対して主張するという課題

が子供には与えられる

って感じですかね。

 

平たく云うと

ママンと一緒にねんねする〜

とゴネくり倒すワガママ放題な子供に

ママンはオレ様と一緒に寝るんだからダメ!

というパパの「否」が

自己規制と理性、及び言語化を促す

ってことらしい。

 

知らんけど。

 

理想は優しいパッパな日本人な

私は寧ろ

子供が母に突きつけた「否」を

父が受け止めることで

母子分離の方向性を与える

と言いたいトコロです。

 

ナンなら

子供の「否」とは

「母」から与えられる「乳」に対して発するモノで

「母」のチチを拒絶した子供が

追い求める「理想」たるモノが「父」である

と、コフート先生的なことも言ってみたい。

 

父性原理の強固な欧米では話し手の能力が、

母性原理の日本では聞き手の能力

コミュニケーションに要求されるということなのだろう…

とは思いますが…

コミュニケーションは通常伝達者がするモノ

とされているし、

コミュ障=空気読めない

はやっぱりないよなー

と思うのでした。

 

何だか、発達障害やコミュ障から、ずんずん話がそれて

頭もウニになってきたトコロで、

一周りしてムリクリ付けた結論でお粗末様ですが

終わりにしたいと思います。

 

因みに、この記事に触発されました。

「人の気持ちがわからない」ということについて - さよならドルバッキー

透明なゆりかご、よく聞くので興味はありますが…当地でも観れるのかな…

*1:例えば、抑揚がないとか、

繰り返しが多い

甲高い声、又は、低くて分かりにくい声、等

*2:通常ここに

「共感を示さない」

も含まれます

注意すべき点は、

「共感できない」

ではないことです。

あくまで、共感をコミュニケートしない、

ということが特徴とされています

*3:当地ではこれが自閉症、及びASD

奇異で最も「特徴的」とされてる印象です

*4:ジェスチャーを理解しない、とか

共感していることを表現しない、とは言われますが…

*5:因みに、英語でも言います。

Read between the lines. と。まんま「行間を読む」です。