ずっと気になっていたモヤモヤをぶつけてみます。
「空気が読めない」=共感力がない?
— neofreudian@はてなブログ (@neokleinian) 2018年9月1日
が発達障害でここまで問題視されるのは日本だけです
むしろ「空気を読みすぎる」=理性的でない=「境界例」と認定されるのがアメリカ
発達障害は Awkward(珍妙、溶け込まない)とか Aloof(孤立する)が故、人間関係を構築し難いのが問題とは言われますが… https://t.co/2K6fORDQkb
このツイートでも書きましたが、
空気読めない
とか、初めて聞いた時には、
ふぁ?!
ってなりました
自閉症系の子供の意思伝達は
確かに顕著な問題ではありますが…
それは「話し方がヘン」であったり*1
感情表現ができない、及び、不適切である*2とか、
相手の目を見て話せない*3
とかであって、
相手の言ってることや、感じていることが分からない
という点はあまり重要視されていない印象です。*4
つまり、私の抱いている
「コミュ障」のイメージは、
自分の思っていることや
感じていることを適切に表現できない人達
であり、日本(のSNS)で言われる
空気が読めない(から自己表現できない)人達
ではないということです
これは、日本人にとってコミュニケーションで重要視されるのが
如何に相手を「正確」に、
(時には話し手より「正確」に)
先取りしてでも理解できるか
という点だからなのではないか。
と感じます。
私が渡米してから4−5年間
英語で文章を書くに当たって一番消耗したのは
ネイティブ英語話者(原住民)に添削してもらう度に、
「おまえはこの文章で、一体何が言いたいんか、さっぱり分からん」
と怒られまくったことです。
言われて説明すると
原住民:「それは、つまりこーゆーことなのか」
とばかり、ごっそり直されます。
それをされると、こっちとしては、
私:「うーん、そこまで言ってるわけではなくて…」
と、なり…
それを言うと、相手は相手で、
原住民:「そんなんだったら最初っからちゃんと言えや!」
と、更に不機嫌になる。
…
一事が万事、塞翁が馬
心の中では阿鼻叫喚…
もー、泣く寸前の修羅場でした。
相手も私が感じていた
「そこんとこは、分かれや!そこまできっちり、はっきり言いたくないんや!」
というオーラがビンビン伝わっただろうし
私も彼等の
「そんなこと言われても何がなんやら、さっぱりワケ分からん!」
というイラ立ちをガンガン感じ会っていたからでしょう。
日本人の行間を読み込む*5感覚が分からないヤツラは感性が鈍すぎる
と、悔し紛れに思ったりもしましたが…
この地獄体験を乗り越えて
出来上がった文章をみると
…
悔しいけど…
やはり…
「はっきり言い’たくないトコロだけど、何となく分かってくれや」
という感覚が「甘え」に過ぎないことを
がっつり見せつけられて
orz…
となる経験を繰り返す日々でした(遠い目
「文法だけ直して下さい」
と詰め寄る私に
「うーん。まあ。何が言いたいのか分かんないから
そこを詰めてから出直してきて。」
と門前払い(何回かされた)しないで
修羅なお直しに付き合って下さった
先生、同僚、友人諸氏には
感謝の気持ちで一杯です。
母親は言葉を話せない赤ちゃんの欲求を
「察して」充たします。
「母子関係に言葉は介在しない」
と言われる所以です。
私が感じた「ソコまで言わなくても、分かってや」は、
母親に対して求める受容と充足であり、
「言葉化して、相手に分かるように喋ってナンボ」
のアメリカンにとっては
お前はアホか!赤ちゃんか?
と言いたくもなるフラストレーションを
喚起したことと思われます(申し訳なさで一杯です…)。
日本には「父」が居ない
と言われるのも、
欧米で求められる話し手の切磋琢磨
(=「わかりやすい」コミュニケーション)
よりは寧ろ「忖度」という、
「言葉にはしないけれど、ちゃんと分かってるからね」的な
聞き手の感受性の洗練が強要される
点にも現れているのだと感じます。
言語化至上主義の権化
(と勝手に私が思っている)ラカン様的には
母子関係に「父」という「第三者」が介入すると
子供は要求を主張する必要を感じる。
ってことだそうです。
絶賛私主観のなんちゃってラカン様曰く、
父親の存在は言葉を必要としない母子関係に
「否」を突き付ける
のだそうです。
子供の(母親と永遠に繋がっていたいという)欲求に
「否」と言う=規制を与える
のが父親の役割であり
その「否」を突き付ける
絶対的他者(=父)に対して主張するという課題
が子供には与えられる
って感じですかね。
平たく云うと
ママンと一緒にねんねする〜
とゴネくり倒すワガママ放題な子供に
ママンはオレ様と一緒に寝るんだからダメ!
というパパの「否」が
自己規制と理性、及び言語化を促す
ってことらしい。
知らんけど。
理想は優しいパッパな日本人な
私は寧ろ
子供が母に突きつけた「否」を
父が受け止めることで
母子分離の方向性を与える
と言いたいトコロです。
ナンなら
子供の「否」とは
「母」から与えられる「乳」に対して発するモノで
「母」のチチを拒絶した子供が
追い求める「理想」たるモノが「父」である
と、コフート先生的なことも言ってみたい。
父性原理の強固な欧米では話し手の能力が、
母性原理の日本では聞き手の能力が
コミュニケーションに要求されるということなのだろう…
とは思いますが…
コミュニケーションは通常伝達者がするモノ
とされているし、
コミュ障=空気読めない
はやっぱりないよなー
と思うのでした。
何だか、発達障害やコミュ障から、ずんずん話がそれて
頭もウニになってきたトコロで、
一周りしてムリクリ付けた結論でお粗末様ですが
終わりにしたいと思います。
因みに、この記事に触発されました。
「人の気持ちがわからない」ということについて - さよならドルバッキー
透明なゆりかご、よく聞くので興味はありますが…当地でも観れるのかな…