息子に泣くのは...やっぱり、良いです
一応、前回の続きです。
子育てに、御意見申す!っていう感じの記事には、コメントつくんですね。
30記事書いて、初めて反応があったので、とても嬉しいです。
でも、ちょっと誤解を生んだかな、と思ったので、リベンジします。
私は基本的には、こうしたら良い、こうしましょう、みたいに、具体的な示唆はしないようにしよう、と意識しながら、ブログを書いてます。
が、にじみ出てしまうのでしょう。
私だったら、こうありたい。理想はこうあるべきだ。って、抽象論をかまし続けるのにも、限界がありますからね。
仕方ありませんね。大きな課題です。
「患者相手に正解を提示してはいけない。」
というのは、分析家の座右の銘とも言えます。それどころか、何を聞かれても、
「応えるな!まず、詮索しろ。」
と、特訓されます。
何故そのことが、その瞬間、聞きたくなったのか。そのことを知ることが、相手や、自分にとってどんな意味を持っているのか。何故、重要なのか。質問にまつわる幻想を、徹底的に詮索していると、応えることが無意味だったり、患者自身の自己探求の妨げにしかならないことが明らかになってしまうことが、儘、あるからです。
余談ですが、これって、性格によるのでしょうが、初心者時の私にはとても難しかったんです。「聞かれちゃったんだから、応えないかん!」って、強迫観念が拭えなくて。
やっちゃいけないって、分かっちゃいるけど、聞いてばかりでは、御意見、言いたくなってしまうんです。困ったもので、大きな口を開いてしまうのです。
前回の記事では、私の、
「情動を上手く制御できない子供には、このような対応をしなければならない」
という、欧米バイアスがっつりの意見が滲み出てしまったな。という意味で、残念な仕上がりだったと、ブコメを読んで感じました。
お話としては、素晴らしいと思うんですよ。我侭坊主だと思っていた息子が実は、妹思いの良いお兄ちゃん。息子君の、そんな自分を理解してくれない、応えてくれない周囲に対するやるせない気持ち。お父様も、本当に御自分の御子様達を良く見ておられます。(結局、それが一番大切な気がします。子育てって。)自分の息子のことを、あんまり褒めるのも恥ずかしいから、「叱ってやろう」と言ってみたり、匿名で発表される、という、奥ゆかしさに、皆様が好感を抱くのも、分かります。
ブコメで、あんまりにも、「良い話」って、コメント付いていたので、捻くれ者の私は、少し引っ掛かったことにこだわって、「何だとお?これが良い話ってどゆことや?」って、気分になってしまったのですね。
只、強調したいのは、「何かが、すごく、今すぐ、欲しい!絶対!じゃなきゃ、死んじゃう!」くらい、強烈な子供の欲動。(まあ、「どっちでも良いよー。何でも良いよー」って、やり易い子もいますが…)これに、付き合うことは、体力、気力、共々に大変消耗することであります。
自分が、心の底から、「よっしゃー!かなえてやろうじゃないか!」って、思えないのに、子供の怒りや、悲しみに耐えられない不安で、安易に子供の欲に応じてしまう親御さん、多い気がします。
人は、失うこと抜きに、今在るモノを愛し、慈しむことを学べません。悔しかったり、悲しかったりした時に、気持ちを分かち合う相手が居ることで、失敗や、喪失はトラウマになって残らず、強さになり得ます。
恥ずかしいと思いながらも、息子さんと、一緒に大泣きできる御家族の皆さん、実は、私も「かなり、イケてるじゃん、」と、思ってます。
ですから、私的には基本、「息子に泣くのは良い」 のです。前回の記事は、捻くれ者な私の、裏の気持ちを表現したモノ、として、「温かく」 受け取って頂ければ幸いに存じ上げます。