精神分析のススメ

1970年代のNYCで一世を風靡したヒップな精神分析の啓蒙をめざす狂気専門家のブログです。

バカボンのパパなのだー の ススメ

私には、ツイッターでフォローしており、勝手にトレンドセッターと呼ばせて頂いている方が数人おります。このブログを書くインスピレーションを頂いている方々です。

 

5歳さんもその内の一人なのですが、先日、コラムのネタ、リクエストありますか?というツイートがあり、速攻で、リクエストさせて頂いた所、「私の希望にお答え頂いたのでは!」(狂喜!)という記事が上がっておりました。

 http://www.machikado-creative.jp/planning/58040/

嬉しいのと、成る程!と思ったので、(またかよ)他に書こうと思って(全然進まないで)いるネタを後回しにして、書きました。

 

リクエスト要望のあった数日前に、5歳さんが、「やばい、やばすぎ、あ、楽しくなってきちゃった、って思うことがある」って感じのツイートをなさっていたので、私がこの「『やばすぎ、楽しい』に至る過程をつぶさに分析して下さい」みたいなお願いをしたのです。

 

がっつり要望にお応え頂き、まことに有難うございました。

 

しかも、2回に渡って!

 

http://www.machikado-creative.jp/planning/57665/2/

 

ポジティブ馬鹿と…の記事を5歳さんは、こうはじめられます。

「ある著名な哲学者はこう言った。

『絶望的な状況で人が前向きに、楽観的に考えだすのは、言わば生存本能と言えよう、でなければ人は自ら死を選ぶだろう』と。」

そして、ポジティブシンキングを、3種類に分けておられます。(5歳さんとは違う名前つけてますが)

1.まあ、なんとかなるよ型

悪いことがあっても、終わりよければすべて良し、と信じて絶望的な今を頑張ろう、という生存本能に従う正統派、ポジティブ。

2.芸人型

「芸人でもないのに人を笑わせたい、ウケたいという思いが強くて、自分のピンチをネタと思ってしまうタイプ。このタイプはポジティブ馬鹿とも言う。」

 

そして、これは、ちょっと、私的にはポジティブに入れたくなかったのですが、

3.危険が楽しいアドレナリン中毒型

怖いけどやめられない、絶叫マシン(スキーでキリマンジャロ降下、崖のぼり、パイクでグランキャニオンジャンプ、などなど)を楽しむタイプ。

 

しかし、2.ピンチが楽しい芸人タイプ からの延長とすると、ふむふむ、納得!させられてしまう。

 

そして、5歳さんは世に蔓延するポジティブブームに警鐘を発します。

 

「ポジティブも限度が必要。用法用量を守るべき。」

 

失敗から学べ。馬鹿(ポジティブ)が過ぎると、死ぬぞ。と。

 

ここで、私は5歳さんのもう一つの記事、「馬鹿のススメ」の一節、5歳さんのご友人のお言葉に立ち戻りたいと思います。

 

「(俺、今めっちゃ馬鹿だなー)って。でも、その馬鹿な感じが馬鹿過ぎてめちゃくちゃ楽しくなってくるんだよね」

 

上述、2.芸人型 に相通じるのですが、この描写には、3.アドレナリンジャンキー型にはとーてーありえないプロセスが見られます(イーヴル・クニ-ヴルみたいな、バイク?でグランドキャニオンジャンプしようとした芸人アドレナリンタイプみたいな人もいますが)。

もう一人の自分が冷静に、馬鹿な自分を「馬鹿だ」と認識した上で、その冷静な自分をも笑わせよう、とする、3段階構造とでも言いましょうか、そこには、

1.馬鹿やってる自分 と、

2.馬鹿な自分を見つめる自分、に加えて、

3.観客とも言うべき、楽しむ他者

を介在する、コムズカシク言うならば、弁証的ハイパー「客観」が存在しています。

 

そして、この記事の締めを5歳さんは、こうなさっています。

 

「普通はしない馬鹿みたいな選択が、日常を非日常へと変えて人生を豊かにするのではないかと僕は考えている。」

 

この、「人生を豊かにする」馬鹿さ、とは、ハイパー客観とでも言いたい、弁証的プロセスを伴う、「物語る馬鹿」さなのではないでしょうか。

 

2.「物語る馬鹿」は、1.正統的、生存本能に従い、ピンチを乗り切る楽天家、や、3.アドレナリンに翻弄され、客観性を失ったジャンキー馬鹿

とは一線を画します。

 

前置きがすっかり長くなりましたが、ここからが本題です。

 

いきなり精神分析論に突入します。

私の大好きなD.W.ウィニコットの最も価値ある貢献の一つとして(他にも色々ありますが)「分析における『遊び』の必要性を明確にした」、ということが言われています。

 

下のリンクでまとめられている論文で、彼は、幼児のおしゃぶりというモノとの関わりに、「遊び」の原点を見出しており、おしゃぶりは、キラキラ「光る対象、主体の貪欲さを刺激するモノ」という描写をしております。

 

http://yokopsy.com/2014/20140413setting.pdf

 

おしゃぶりで「遊ぶ」ということは、乳(母親)からの分離を「楽しむ」ことであると思われます。

 

おしゃぶりは、「乳」の代替物、つまりは「母」の代替物、「自」(今、変換見ていて「児」の方が良いかも、と思ってしまいました。漢字の同音意義って素敵ですね)と「母」との間に存在するモノ、即ち「セルフオブジェクト(自己対象?)」であると通常は捉えられます。

が、ジム・ハーザックという分析家が「ファザーハンガー(父渇望)」という著書で主張された様に、私的には、母親からの分離こそ父親の助けで成されるべき、と信仰しているので、「乳」ならず、「父」との間に形成されるモノでもある。と、言わせて頂きたいところです。

この「乳」と「父」も同音異義で、良い感じ(漢字)。って、すっかりオヤジギャグですね。すんません。

つまり、 おしゃぶりは、対象である、「父」と、「乳」、と、自己を確立しつつある、「児」の狭間に立ち現れるモノ(セルフオブジェクト)であるといえましょう。

 

そして更に、何故か話は進化論へ。

男性を男性ならしめる性染色体の一つ、Y染色体はXよりも短い、つまりは遺伝情報の量でいうと、男性は女性に劣るのです。という論を聞いたことがあります。

「劣る」というと、語弊がありますね。

女性は性染色体をコピーする際に「失敗」があっても、もう一個あるから大丈夫。ですが、男性は、コピーに「失敗」すると、後がない、ということだそうです。だから、男性にしかない遺伝病が存在する。男の方が、幼児生存確率、寿命共に低い、確か、そんな話だったと思います。

 

そんなXがちょん切られただけ、みたいな「弱い」Y染色体を持つ男の存在意義は一体何なのか。それは、「進化の促進」である。

私のすっかり文系な頭でざっくり簡単に言うと、弱いやつはあっというまに淘汰されてしまう男達だからこそ、環境の変化に応じた個体のみ生き残る、という、「自然の選択」の「圧力」がかかり易い、ということだそうです。

 

つまり、種の保存を考えると、(イキナリ5歳さんに戻りますが)ポジティブ馬鹿な男達は、個体の保存という点では、理不尽な選択をしているように見えても、将来の状況がどう変わるか分からないという現実を踏まえると、「次世代の生存の可能性」を広げる上で必要不可欠な存在である。ということに、私の頭の中では、なっております。

 

長くなってきたので、締めに入ります。

 

このブログでは何回か、日本における父親の不在という問題に触れてきましたが、ここにきて、私は日本の理想の父親像を見出だしたように思います。

 

日本の乳、じゃなかった、父は、ずばり、バカぼんのパパなのだ!

 

http://www.dailymotion.com/video/xxsyaf

 

幼い頃、私はとても不思議でした。何故、あんなにどうしようもないバカぼんのパパに、あんなにきれいで常識的で、優しいママがついているのか。

 

バカボンのパパはふざけてばかりいますが、実は天才的植木職人さんで、ママはそこにほれ込んだ。というお話だったような気がします。が、ぜんっぜん納得いきませんでした。

 

が、この「種の保存」観点から捉えると納得です。バカボンのママは、先見の明あり、包容力豊かな素晴らしい女性。男のバカを許容しつつ、駄目なことは駄目と厳しく諭し、(死ぬほどの)無茶はさせない良識ある女性なのです。

 

そして、バカボンのパパは表向きは思いっきり役立たずに見えても、実は手に職ある、いざとなったら頼りになる男のみならず、子供に夢を見させる遊びの天才。母親喪失感なんか子供に感じさせません。

 

ポジティブ馬鹿は、個体としては死ぬ可能性を高めているだけかもしれませんが、馬鹿話を子供達と共有することで、母子分離を楽しみ、自立した次世代を育てるのには欠かせない、つまりは、種の存続の為には欠かせない存在であると言えましょう。

 

なんて。突拍子もない連想にまかせて徒然考えてばっかいるから、まぢめな論文書けなくて、うだつが上がらないんですよね。私ってば。(泣)

父親不在の記事はこちらでございます。

 EDと、父親不在と、村上春樹 - 精神分析のススメ