精神分析のススメ

海外在住メンヘル専門家。ヒップな精神分析をめざしております。

藤田二コルといじめ 罪悪感なんてクソなのに。

この藤田さんの発言が、どの様な文脈で発せられたのかが分からないのでこの記事書くの迷ったのですが。

 

バッシングが凄いので。

 

「こいつ、いじめる側の人間だな」

「それだけのことをしでかしたんだから当然だろ
加害者を心配するとかキチガイかよ」

「犯罪者の人権とかどうでもいい」

「いや、背負えよ
後日和解したならともかく、人殺しやぞ」

「アホか、人殺しといて心配もクソもあるか
刑務所はいれや、あと賠償もはらえ」

 

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1927726.html

 

等の名無しコメント。

 

「何の罪も無い(死ぬほど悪いことをしていない)人が死んだ」ことに対するやるせ無い気持ちは分かります。

 

「自殺」を「殺人」にむすびつけたい気持ちも分かります。

 

しかし、です。

「自殺」に至るストレスの要因として、「いじめ」があった。

ということは事実でも、死ぬという決断をしたのは当人です。

そこに犯罪者はいないのに、いじめた子供達を「人殺し」とまで言える想像力があるのなら、子供達の「いじめたい」気持ちを想像することはできないのでしょうか。いじめられた子供が大人に助けを求められなかった気持ちや、状況を想像することはできないのでしょうか。

いじめがあったのに気付かなかった、見てみぬ振りをした周囲の人達の気持ちを想像することはできないのでしょうか。

 

「犯罪者の人権とかどうでもいい」

 

という人は、世の中の不条理を理解していないのでしょう。現実は、水戸黄門の世界ではありません。ふとした間違いから自分が犯罪者というレッテルを張られて吊るされる可能性はざらざら転がっています。

 

視点を変えて、自分が振るっている可能性のある暴力について、考えてみた事がありますか。自分を省みることは、他者の気持ちを理解する初めの一歩でもあります。

 

自分のやっている事が他者に及ぼし得る影響を考えようとしない人達は、何があっても自分の在り方を変えることができません。自分が常に被害者だからです。上記のように、無責任に言葉の暴力を垂れ流すことは、自分ではいじめられて自殺した子供や、その親の為に、という名目で正義感に溢れているつもりかもしれませんが、いじめる子供と一緒だということに気付いていません。

 

二コルさんは、きっと誤解される隙を見せたのでしょう。若いとはいえ、有名人で影響力もありながら無思慮だったという批判は仕方ないにせよ、「あほか」「キチガイか」という言葉で攻撃される筋合いは全くありません。

 

本当の問題は、アンミカさんの言う、「いじめがなかった前提で動いていたことで、実は加害者の子たちの更生の機会も奪っている」という点だと思います。

 

西川史子の「いじめた側は、一生贖罪として残していかなきゃいけない」という発言が、唯一正当な意見というコメントをみました。又しても、文脈が分からないし、大変失礼とは存じますが、私にしてみれば、情に流されているだけで、建設的でないこの方の意見の方が、「ばっかじゃねぇかー」です。

 

いじめた側に贖罪させるという大義名分は、いじめそのものです。バッシングで負の連鎖を存続させるより、いじめが起きないように、行き過ぎないようにするには如何したら良いか、ということを考えるべきです。そのことについて、オープンに対話できないのであれば、いじめはなくならないでしょうし、加害者達の真の悔悛は得られません。

 

罪悪感なんか背負って生きる事なんて、はっきり言って無意味です。

 

罪悪感に苛まれる人達は、「自分は悪いことしたって分かってて苦しんでるんだから、もう赦してよー」とばかり、自分を変えることは決してしようとしないからです。