精神分析のススメ

海外在住メンヘル専門家。ヒップな精神分析をめざしております。

全然入門になってない、ネオフロイディアン の フロイト入門編

id:hamarenさんに、フロイト精神分析入門を読んでもワケ分かりません、と言われてしまったので、私流、フロイト入門編に挑戦してみます。

 

とは言っても、フロイトをゴリゴリ読んだ時期もありましたが、英語訳がさっぱりワケ分からん(ストレイチーという、フロイトの愛弟子が使命感に燃えて翻訳したのですが、はっきり言って、評判悪すぎです。ドイツ語で読んだら素晴らしいけど、英語ではワケ分からんって。)、詰まらん、って感じであまり覚えてません。

ごめんなさい。ネオフロイディアンと名乗っておきながら、ちゃんと読んでません。

 

いえいえ、ちゃんと読んだ...とは思うんですけど、覚えていません。

 

なので、私のフロイト教授に関わる個人的な経験(会った事ありませんが)について、つらつらと書いてみます。

 

私がフロイトの考えに

「ガッテン!」

と感じたのは多分小学生高学年か、中学1−2年生の頃でした。

エディプスコンプレックスについて、一体、何がどうなって学んだのかはもう覚えていませんが、(おそらくマンガでしょう)

子供は父親を排除し、母親を独占したいという願望を持っている、

というアレに、いたくガッテンしたことは鮮明に覚えています。

母親に対して性欲を募らせていたワケでは決してありませんが、父親に甲斐甲斐しくつくす母親を見ては、

「アイツの面倒みるなら、もっと自分の面倒を見ろよ」

くらいは常に感じていたので。

 

母性本能の塊みたいな母は、私にもかなり甲斐甲斐しく尽くしていたし、今にして思えば、私の本当に欲していた所は、父に男親としてちゃんとしてもらいたい(父親に期待できなかった、とか、エディプスと同じく、父親不在=愛情に飢えていた、ってことですね)、父と母が、もっと対等な関係で仲良くしている所を見たかった、という事なのですが...

当時は、

「エディプスコンプレックス、すげー。フロイト、やるじゃん」

と、思ってました。

 

当時から、私は自分の感情が理不尽で、しかもコントロールできないことがもどかしくて、自分というモノが何故理解できないのか、ということで悩んでもいました。

そんな私には、無意識という概念もすんなり納得できるモノでした。

 

で、10余年後になって、ゴリゴリフロイト読みましたが...

 

どちらかといえば好印象が残っている(何が書いてあったか覚えてる)論文は、3つだけ。

「喪とメランコリー」

鬱と、喪に服す人の悲哀の違いは何だろう、という論文で、失った対象への怒りや、破壊的衝動が自分に向けられた時、人は自己批判や罪悪感に苛まれ、鬱になる、という主旨ですが、

「何でそんなに、裏表ひっくり返して、上下も逆にする様なことにならなイカンねんー!」

と、読んでる間は超ウザかったー。英語で読んだからかもしれませんが。

 

「快楽原則の彼岸」という、

ここに分かり易く、素晴らしい解説がありますが、

快感原則の彼岸|フロイト後期の文献|横浜精神分析研究会

フロイト『快感原則の彼岸』を解読する | Philosophy Guides

私の一番のお気に入りです。

やはり、失うこと、と、それにまつわる不安 がテーマです(ホンマか?)。

アメリカ人には、ウケが良くありません。

 

3つ目は、彼の芸術評論

ミケランジェロのモーゼ像」です。

人々の心に訴えかける芸術作品は、何かが起こる直前の緊張状態、精神の高揚を伝えるモノである、という分析が、成る程ー。でした。

フロイトの芸術評論というと、長いモノはちん、丸いモノは子宮、ってヤツかと思いきや(嘘。思ってませんでしたよ。そんなこと。)全然そんなんではありませんでした。

 

フロイトと言うと、エロス(性欲)が全て、みたいな印象ですが、実は、愛するモノを失う喪失感について、切実に探求した人でもあります。

 

って、全くフロイト入門になってませんね。

 

ハマダさん、役立たずな入門編ですみません。

 

いつもながら、最後までお付き合い頂、ありがとうございました。

正義感 と 思いやり

ツイッターで、こんなんが流れて来て

 

公共トイレで先頭になった時、入って来た泣きそうな女児とその親が長い列を見て絶望的な顔になったので 『お先にどうぞ』 と譲ったら三つくらい後ろの女が 『勝手に譲るな、後ろの人のことも考えろ』 と言うので 『じゃ私が列の一番後ろに行くわ、これで貴女の順番は元通りね』 と言って並び直した→

ら、あたしの後ろの二人も次々と並び直してその女はめでたく先頭になった ブツブツ言いながら彼女は個室に入っていったけど、いつか子供連れでトイレに並んだときに、この時のことを思い出してくれたらなと思う

 

これに対して、

子連れというだけで、勝手に譲るぽんちーなさんの方が、後ろの人達の事を考えられない、無神経なヤツ

みたいなツイートがガンガンついてて、もやっとしたので、書いてみます。

 

彼女自身、

大人げない私の返しを後ろに並んだ方が救ってくれた感じです(笑)

とも言っているので、

「貴女の順番は元通りね」が、

前頭葉がどんどん破壊されている私だったら

「手前の事しか考えられねぇケツの穴の小せぇクソババァ」くらい言いそうです)

攻撃的な返しだったことも自覚しておられるのでしょう。

 

更には、

私も子連れの時に譲ってもらった事があるし、自分が子供の時に恥ずかしながら間に合わなくて出先でおもらしして母親を困らせてしまったこともあるし、静かに並んで待ってる大人だって密かに切羽詰まってたりもするかもなのでその女性を批判するわけではないんだけど、思わず言い返してしまった(;´д`

 

ぽんちーなさんは、後ろの人がもしかしたら切羽詰まっていたのかもしれない、という想像力を持ち合わせた上で、「後ろの人の事も考えろ」という正論を振りかざした女性について、

 

結果的に彼女は多分すごく恥をかいた気分になってしまったと思うので、ベストな選択だったとは思えないけれど、私の後ろに並んでくれた人のおかげで『そんな風に思う人ばかりじゃない、貴女に賛同する人もいるんだよ』って言ってもらえた気がしてちょっとほっとしました

 

と書いているにも関わらず。です。

 

私にとって、彼女が素敵だと思える部分は、

「子連れの親子を思いやった」所ではなく、

 

「後ろの人のことを考えろ」と、正論で攻撃してきた女性に対して

「恥をかかせた」と思いやれる所 

 +

「ベストな選択は他にあったのでは」と自省できる所です。

 

後ろの彼女が本当に切羽詰まっていたのであれば、

「順番を守れ、後ろの人のことを考えろ」とぽんちーなさんの好意が「まちがった」こと(で、自分が「正しい」の)だと主張するのではなく、

「体調が悪いので、待ち時間が増えると非常に困ります」と率直に言えば済む事です。

それが素直にできず、

「そっちを思いやるのなら、従順に規則を守って待っている、こっちをちゃんと思いやれ」

という思考回路は

「正しい(良い)自分はいつも損している(悪者にされてしまう)」

という、恨みツラミから解放されない人の、心の問題です。

 

規則さえ守ることが、「正しく」「良い」と信じる人達は「ちゃんと」規則を守って大量虐殺の一端を担った、ドイツ人と同じです。

「規則」や、「上官」が悪かったので、加害者である責任感は全くなく、良心の呵責はおろか、自分は常に状況の被害者です。

 

コールバーグの説く様に、

ローレンス・コールバーグ - Wikipedia

本当の思いやりや、倫理観は、

状況に応じて、理不尽な規則はクソッ食らえと思える強い信念と規則を破る状況を見極められる柔軟性があってこそ、

獲得できる、道徳性発達の最終段階なのです。

 

生理的欲求と運動会の場所取りは別問題な気もしますが、子供が絡むと特に、こーゆー事にもなるので、「正しい自分は損してる」気持ちを鬱散できない人達が、マナーや、ルールといった、正論を持ち出して攻撃的になる気持ちも良く分かりますけどね。

 

素晴らしい対応ですね。 後ろの女性の発言も正しいのと考えてるので、貴方の対応に目から鱗でした。昔、息子の幼稚園の運動会の観覧の為に並んでいたら、近所のお母様達が、"◯◯さーん、こっちに入りなさいな"と言う行動を見た時の事を思い出しました。

 

ルールを守らない人は、本当に「悪者」ですか?

 

自分の心の奥底を探って見て下さい。

 

あなたが思いやる事を拒む「悪者」の中には、必ず、寄り添われる事なく「傷ついた自分」がいるはずです。

 

フロイトは、「正当化」とは、自我が傷つき、変化しない為の、強固な「防御」(=思考停止の言い訳)の一つである、と言いました。

 

【資生堂のダルちゃん】 擬態 と 自己愛の欠如

10年近く使っていた dell がいきなり死んで、使い慣れない瀕死の Mac に頼らざるを得ない状況になり、更新が滞っております。

家電一般、リサーチするのが面倒くさいので誰かオススメあったら教えてください。

ブログ書けて、ネットが見やすくて、スカイプできて、頑丈で長持ちすれば、何でも良いです(スマホでどーにかできそう?でも写真でメモリ使い果たしてにっちもさっちもいきません。テク白痴です。すみません)。

昨日、この方の、この記事の、ここを読んで、

11月29日の話 - さよならドルバッキー

〇もやっとしたのが資生堂のダルちゃん。ダルちゃんは発達障害のメタファーかなんていうのもあったけど、多分違ってて異様に自己肯定感の低い人なんだと思う。ダルダルな自分を愛せないから、普通に生活していくことを「擬態」なんて思ってしまう。それにみんな一皮むけばダルダルなんだからダルダルを隠していることに嫌悪感を持つ必要なんてない。もしダルダルであることを攻撃してくる人間がいるとするなら、それは同じダルちゃんと同じダルダル星人が「私も必死で擬態しているのにあなただけズルい!」ってことなんだと思う。サトウさんはそんなダルちゃんに「擬態する必要はない」って言う立場なんだろうとは思うけど……。

 

ダルちゃん読んで、

「ダルちゃん」第9話 | ダルちゃん | 花椿 HANATSUBAKI | 資生堂

まとめのコメント読んで、

ADHDは違うっしょー?!」

と、思ったので書きます!

コフート先生の、「偽りの自分」について。

 

コフートについては、この記事でも

【性依存症】 カエデさん その5.依存からの脱却 充足と共感 - 精神分析のススメ

さくっと触れました。

が、今読んでびっくり。酷いですね(笑)。

真面目に説明しているサイトさんに、思いっきり丸投げしました。

笑っている場合ではないので、今回は、もーちょっと、気合い入れます。

 

ハインツ・コフートは、アメリカが誇る、精神分析の大家で、好き勝手な事言うと、

「まーた、お前は何も分かってないなー」

と、怒り出す先生方がおられたので、文句言われる事のない日本語で書いても気がひけるんですよねー。

 

小難しいので、以下、がっつり、私的解釈ですが、本題に入ります。

 

コフートは、自己愛専門の精神分析家、と言っても良いでしょう。

古典的(?)メンヘラの境界例と同じく、「感情の混乱が激しくストレスに脆弱な」パーソナリティ障害B群の、自己愛性の病理と治療法を確立した大先生です。

自分を卑下し、他者を立てる、謙遜が美徳な日本人にとっては、自己愛、というと、自己チューとか、他者を愛さない、とか、悪い印象を持たれる方も多いのではないでしょうか。

コフート先生曰く、

「自分を愛する事は、精神的に健全である為は必要」

という、とかくセルフエスティーム(自己肯定感?かな?)を重んじ、

「自分はスゴい!」

という自己顕示欲の強いアメリカンにはしっくりくる事を言ってくれてます。

 

とりあえず、自分を受け入れて、大好きになれないと、他人を受け入れたり、愛したりできませんよ。

ってことなんですけどね。

 

フロイトの主張は、本能(性欲)と、罪悪感(社会性)の狭間で人間は精神を病む

= 自分は(ママと)ヤリたいけど、(パパのせいで)できない

という、(ママとパパって象徴が、ガチになると大変クレイジーなことになってしまう)自我が能動的なものでしたが、

コフートは、

愛されないことで、人間は病む

= 素直に自分をさらけ出してしまうと、誰も(ママも、パパも、兄弟友達さえも)僕ちゃんのことを愛さない

という、至極全うに受動的な自我の欲望に触れた為、フロイトの娘のアンナに裏切り者呼ばわりされてしまったそうです。

 

頑張ってフロイト派に寄り添っていたコフート先生にとっては、さぞかしショックだったことでしょう。

というのはさておき、 

 

自己愛性のパーソナリティー障害は、一見、魅力的でもありますが、虚栄心による自己欺瞞や、承認欲求が強く、他者をコントロールしようとする、DV男、というのが典型例です。

が、コフートは、そんな彼等が愛情に飢え、自己否定の強い哀れな存在である、と分析します。

本当の自分を理解されない事に憤り、絶望する彼等には、ナルシシスティック サプライ(直訳すると、自己愛の供給源 とか?承認欲求を充たすモノと言っても良いかもしれません)を与える、自己対象(自分の一部として取り込める他者)が欠けている、とも。

自己対象には、以下の3種類があります。

1. 鏡

自分が褒めて欲しい所を認めて褒めてくれる、(必要なモノ=愛情 を与えてくれる)母親的モノ(対象)

2. 理想化

自分が崇め奉れる、何でもできる(守り、導いてくれる)父親的モノ

3.双子

自分と同じなのだ、と感じることができる(喜怒哀楽を共に分かち合える)友達的モノ

 

ダルちゃんには、「本当の自分」を認めて、

「そのままのあなたで、大丈夫」

と感じさせてくれる、母も、父も、友達もいません。

 

そこで感じる怒りを表現すると、人は、所謂、自己愛性の障害である、DV男や、モンスターママみたいになります。

が、怒りを感じ、表現しては、見捨てられてしまう、生きて行けない、という恐怖にオノノク人は、とりあえず「偽の自分」で、カスカスの(偽の)容認や、理想や、共感で、その場をしのぎます

 

カスカスのサプライ(供給)なので、全く満足出来ません。

無気力になります。

栄養失調みたいなものですからね。

 

こうして、自己愛の不足がダルちゃんを生み出します

 

とても説得力ある人物描写で、ドキドキします。ダルちゃんが、如何に「本当の自分」を回復できるのか(それともどんどん自分を追い詰めるのか)、とても気になります。

 

という事で、牛乳石けんも、資生堂も、モヤモヤしちゃう現代人の病みをついてくるプロモーションのかけ方、尖っているなー、と 感心します。

 

余談です。

実は、私が初めてはてなに出会ったのは、この方のこの記事でした。

Twitterのメンヘラ神が死んだ件について思ったこと - まつたけのブログ

メンヘラについて、調べていて。

それで、この記事読んで、スゴいと思ってズルズルと、ブログの世界に引き込まれてしまいました。

人生の9割が親で決まるんだったら僕は今すぐ自殺する - まつたけのブログ

 

お元気でおられるのでしょうか。遠くからですが、応援してます。

又手直しちょこちょこ入れるとは思いますが、いつもながら、ワケの分からん話にお付き合い下さり、誠にありがとうございました。

 

ラップは狂気?

以前、エミネムについて、「韻を踏んでなんぼのラップは狂気の歌謡」と書きましたが、

狂気 と 自己表現としての芸術 エミネム A.k.a スリムシェイディ - 精神分析のススメ

今日はそのことについて、掘り下げてみようと思います。

 

日本人の統合障害の患者さんには、ないのかもしれません。日本語訳探したのですが、見つかりませんでした。

欧米では、統合失調、特に、両極性の躁状態にある患者さんに見受けられる、クラング・アソシエーション(Clang カーンと鳴る鐘の音、 Association 連想)という思考障害の症状があります。

 

これは、こちらに分かり易い解説ありますが、

連合弛緩、言葉のサラダ、言語新作のニュアンスの違い | えさきち。

観念奔脱(全力ダッシュ的に、次々とアイディアや話が出てくる)や、連合弛緩(因果関係の欠如)とかにも通じるのですが、クラングには、「音が似ている」連想(連合)、という特徴があります。

 

カンカン鐘を鳴らしながら、猛スピードで街を疾走するも、火事現場がどこか分かっていない、赤信号無視の消防車のような、躁状態の患者さんのイメージなのでしょうか。

 

私が、たまたまヒップホップ系のラジオを聴いている時に居合わせた同僚の精神科医(インド系)に言われました。

「あんた、こんな音楽聴いてるん?完全に躁状態な音楽やな。黒人は、常に虐げられているから、ブレイクすると、大変なんやろね。信じられへんくらい、誇大妄想がどんどん膨らんで。」

みたいな事を。

 

そこで、

私: 「じゃあ、ボリウッド映画の躁全開なストーリー展開は?」

って返してみましたが、

彼女: 「それは文化遺産。」

と、華麗にスルーされてしまいました。

。。。。。。

確かに、そう言われてみると、ヒップホップやラップは、超早口多いし、(私達の黒人英語・文化理解の欠如のせいもありましょうが)ワケ分からんという、躁の症状に似通うものがあるかも…

 

エミネムも、

「オレンジは韻を踏まない言葉、という先入観はムカつく。どんな言葉でも韻を踏む。」

と言いますが…

www.youtube.com

storage booth     すとぉりぃぢ ぶぅーす

door hinge loose  どーぁりんぢ るぅーす

four inch screws  ふぉーぉりんち すくるぅーす

foreign tools     ふぉーぉりん とぅーうす

orange juice      おーぉりいんぢ じゅぅーす  

 

ってな具合に、リエゾンや音便変化を駆使して、かなりクレイジーにめちゃくちゃな韻を踏むんですよね。

 

ここまでやられてしまうと、確かに、言語新作(存在しない言葉を作ってしまう)という躁状態でも診られる思考障害ならぬ、韻新作(存在しない韻を作ってしまう)かい?って気もします。

精神障害をきたした患者さんの思考障害と、芸術家である、詩人の韻を踏んでの詩作は違う、とは言うものの、ここで全文訳されているエミネムのフリースタイルラップ

front-row.jp

とか見ていると、本当にノッてくるとペースが速まり、意味不明って訳ではないのですが、ゾッとすること、あります。それが、芸術作品に触れた感動なのか、自分には理解不可能なモノ(狂気)に対する恐怖なのか、よく分からなくもなります。

 

余談になりますが、このパロディ、めっちゃ笑えるし、政治的メッセージも、エミネムの一般論よりは深く、良いとこついている(自分達の信じる正義を支持しないお前等は、俺の敵、と言う対立を深めるだけのメッセージをばら撒くよりも、そんな対立を生み出すオカしいシステムを、どうにかしなきゃだろ?とかね。)と思うので、誰か日本語訳つけてくれませんかね。

www.youtube.com

も一つ余談ですが、最近DJバルボサという、ラジオパーソナリティ(?)にハマっていて、彼のミックスの仕方を聞いていると、ミクシングって、自由連想と似ている、と感じます。

 

「付いてこれるかい?この俺に。」

 

って感じで。

 

ミックスは、リズムとか、サウンドで何か共通項のある曲をどんどん被せていくので、曲と曲の繋ぎ目で、次に何が来るか大体予想が付くのですが、それが、もう、

「あー、これこれ!!!聴きたい気分が盛り上がってたんやー!」

ってな感じに、グッとくる繋ぎで、

「絶対この曲しかない!」

って選曲してきたり、時々、

「えっ?それでキたんかい?」

って言う驚きが混ざったり、そのバランスが凄くイケてると感じられるDJは、なかなかいません(個人的好みもあるのでしょうが)。

 

今私の中でホットなラテン系DJ ロイ・バルボサ、このステーションで、

DJ Roy Barboza - HOT 96.9 Boston 

現在アメリカ夏時間中は、日本時間、22:00-7:00

(もう冬時間なので23-8時までですね。)

月曜日から金曜日までヒップなミックスを提供しておられます。

 

しかし、DJで、この9時間ぶっ続け労働(流石にちょくちょく休憩しているようですが)って、どうなの?

 

日本のラジオ局ではありえないと思うのですが、アメリカのラジオパーソナリティは、

「サラリーマンかい?」

というくらい、朝から晩までくっちゃべってる人も多いです。

アメリカ人ならば、皆が家族と一緒にご飯を食べる感謝祭当日(日本で言うならば、盆、暮れ、正月クラスの祝日です)でも、一日中頑張って

「すろーばっく(throwback; 昔を懐かしむ音楽を流しまくるって感じ?)」

しておられた様です。

アメリカのラジオ局はブラック企業か…

 

だから、クウォー!キター!って、当たりの日もあれば、んー、イマイチ、な日もあります(商業ベースでプロモーション中の新しい曲が沢山入るセグメントとかね)。

そりゃ、週休二日とはいえ、年中毎日朝から晩までやってたら、疲れるでしょうし。

 

あ、でも、日本では聴けなかったりして…

使役動詞は悩ましい

先日は、早期英語教育と、発音について書きました

8歳になる前の英会話のススメ - 精神分析のススメ

が、今日は、構文(?)について書いてみます。

 

この方の記事に触発されました。

 

tsuputon7.hatenablog.com

はぁ。Asが最強ミームねー。確かに、日本語に翻訳すると、色々な意味になって厄介、と言うのには、

 

「ふーむ、成る程―。」

 

なのですが、個人的に、そんなに苦労した覚えが全くないんですよね。「一緒」ってことで、スルーできてたんだと思います。

 

だから、Alsoが語源って、ちょっと以外でした。私の頭の中では、As は、Together に限りなく近かったので。

 

そんなこんなで、今日は、私にとって、一番やっかいだった単語、Make と Have について、書いてみます。

 

これらの、Let系、使役動詞を使いこなせるようになれば、あなたも、ネイティブ(っぽい)英語を話せる!と、言いたくなる気持ちも分かる(何かの見出しにあった記憶があります…)くらい、それはもう、「やんごとなきポテンシャル」がぎっしり詰まっている。と、私的に感じております。

 

まずは、この3文を、御覧下さい。

 

He lets me play the piano.

 

He makes me play the piano.

 

He has me play the piano.

 

という、

 

主語+使役動詞+目的語+原型動詞 という、ややこしい形で使われる、アレです。

 

どれも、

 

「彼は私にピアノを弾かせる。」

 

という日本語訳になりますが、この方の御説明の様に、

let、make、have、get~使役動詞を使いこなす | 真剣に学びたい人のための英会話学習サイト

意図(私が、ピアノを弾きたいかどうか)や、義務(誰かがピアノを弾かなければならないかどうか)、によるニュアンスの違いがあります。

 

でも…「誰かに何かをさせる」って、日本語で普通に言いますか?違和感ありません?

 

Letならば、「彼は私にピアノを弾かせてくれる」と訳したいところです。

Makeならば、「彼に言われて(命令されるからしぶしぶ)私はピアノを弾く」とか。

Haveならば、「彼に言われて、私がピアノを(そのパーツを誰かが弾かなければならないので)弾くことになる」とかいう感じでしょうか。

 

日本語に訳し難い、というのも悩ましい原因の一つではありますが、私が一番戸惑ったのは、よく見かけるわりに、自分で使役動詞を使うという発想がかなり長いこと沸かなかったことです。

 

使役動詞は頻繁に使われるので、意味は理解できるのですが、自分で使いこなすことができなかった、と、言った方が良いかもしれません。

 

Let くらいなら、相手が許可、同意してくれることを前提にしているので、命令形で、(お願いする時に)気軽に使えるのです。

 

Let me do it. (やらせてー!)

とか、

Let me know. (知らせてね)

 

は、私もかなり頻繁に使う表現です。

 

ところが、Make や Have には、誰かが誰かをコントロールしているニュアンスがあります。

 

この、強制的なニュアンスを使いこなすのが、難しい、と感じます。

 

 

アメリカに住み始めて、思ったのですが、英語で話す、ということは、自分の意思、要望を明確に伝えて、相手に納得してもらってなんぼ、という側面があります。

 

最初は、これがなかなかできなくて、大変でした。

 

I would like…

とか、

Will you…?

で、分かり易く何が欲しいか伝えるくらいは、まあまあ、できたのですが、

 

「これ、欲しい?」

と言われて、

「はい。有難う御座います!(Yes. Thank you!)」

と、答えて、「『結構です(No, thank you.)』ってこと?」と混乱されていました。

正しい答え方は、「はい、下さい。(Yes, please.)」ですね。

 

単に、「有難う」と申し出を受け入れるだけ(受身)では駄目なのです。それでは、

「お気持ちは有り難いけど、結構です」

という慣用句に限りなく近くなってしまうので。(Yes, thank you. でもちゃんと分かるよって言ってくれる人もたまにはいますが、私の知り合いだけかも...)

「お願いします。」と(能動的に)頼まなければ。

 

日本語(日本人)は、とかく受身だ、と言われますが、主体と客体を曖昧に伝える言語でもある、と言われております。

 

「甘えの構造」に関する論文(多分)で、土居健朗氏が書いておられました。

 

I love you.

を、日本語にすると、

「愛してる。」とか、「好き。」とか、「大好き。」

しかありえない。

と。 

これは、どーゆーことかと言いますと、

I love you. 

なんて言いたい気分になる時点で、既に二人はラブラブなんだから、

「私は、あなたを、愛してます。」

みたいに、人称代名詞なんかいちいち言ってらんねーよ!

「好き。」

だけで、誰が誰を好きか分かるだろー。

 

いちいち私とか、あなたとか言う必要があったら、信頼関係が出来上がっていない証拠だよ。

 

という考察をなされておられました。更には、

 

自我の確立を重んじ、自分の意思を明確に伝えるプレッシャーがかかる英語では、

「私が、あなたを、愛してます!」

と、きっちり自分と相手を分けて愛情表現をしなければなりませんが、

日本語では、

「私達、ラブラブよねー」

とばかりに、誰が誰を好きなのか、さっぱり分からない自他の区別を曖昧にする言語化(忖度ってヤツですね)で、信頼関係を確認します。

 

という日本語論を繰り広げられておりました(土居先生、こんなゆるい紹介の仕方に、お墓の中でお怒りにならないで下さい)。

 

話題がどんどんずれましたね。やや強引に、使役動詞に戻ります。

 

Make や、Haveを使うと、

Aが、BにCさせる。

という文になり、曖昧な日本人の私にとっては、

「BがCする」

の、「Bが」の部分をはっきりさせるさせるだけで、すでに負荷が掛かっている(BがDをCする。とか、Dまで考慮せなあかんこともあるし)上に、更に

「『Aのせいで』というファクターを明確にせないかん!」

というプレッシャーが重なり、ウザッとなってしまうわけです。

 

「Bも、本当はそこまでCなんてしたくないんだろうけどさ…」

 

という、日本人同士であれば、なんとなく、で分かってもらえる心情を、

「AがBを強制している」

というニュアンスを加えることで表す、迫害妄想的構文だと(かなり個人的に)思っています。

 

この構文を、無生物主語でも、自由自在に使いこなせるようになれば、あなたもネイティブ(に近い)英語を話せる!

 

と言いたいくらい、使役動詞には、自他のコントロールを重視するあまり、迫害妄想に充ち満ちた欧米文化ミームが詰まっているのではないかと、日々、感じております。

 

テイラースイフトの昔の曲を、以前、こちらで紹介しました (期間限定で公開しています)

軽薄な精神分析 2. Shake it off 不完全な自分のままで いいじゃん。 - 精神分析のススメ

が、彼女の新曲、

iflyer.tv 

Look what you made me do も、直訳すると

「あなた達が私にさせたことを、見ろ」

になります。が、雰囲気的には、

「私かて、好き好んでこんなことしてないんで!!みんなあんたらのせいやがな!」

って感じで、責任のなすり合いはしょっちゅうしてるアメリカ人にしても...まあ…メンがヘラっている(境界例状態な)歌詞とPV映像ですね。

 

私的には、(使役動詞とは全く関係ありませんが) サビが似てる?という噂の、90年代の笑える迷曲、I'm too sexy(ぼくちゃんってば、なやましすぎ)

 

www.youtube.com

の方が好みです。

 

私の思いっきり自由に連想が飛びまくってる文章に、最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

8歳になる前の英会話のススメ

昨日、ぼっちさんの英語教育に関する記事を読んで言いたいことがでてきたので、書いてみます。

 

www.lonely-surfer.com

語学センスのあるなしって、やる気だけじゃなく、外国語習得に対する価値判断にも凄く関わってくると思います。

 

言いたいことが伝わらないと、フラストレーション溜まるし、へこみますよね。英語なんて話せなくても良い!ってなる人が多いのも、分かります。

 

ぼっちさんが、本気で、

 

「翻訳アプリがどんどん優秀になっていくこのご時世、役に立つかどうかも分からない、楽しくもない英語の勉強を子供に強要して、もっと有用なスキルをゲットするチャンスを逃すのはリスキーじゃない?!」

 

というお気持ちで書かれたのか、はたまた、話題を取るために極論展開されたのかは分かりませんが、言語オタクな私としては、

 

「幼少期から、外国語会話を楽しませよう!」

 

と、声を大にして主張したいところです。

 

人間は、書き言葉は教えられないと取得できないオプション仕様ですが、

 

話し言葉は本能で取得する

 

と言います。

 

赤ちゃんは、文法を教えられなくても、周囲の言語を聞くだけでしゃべり始めます。

 

生まれてから8歳くらいまでに言語に触れないと、一生言葉を話せなくなってしまう、という、言語獲得の限界期とか、クリティカル・ピリオドと言われる時期があります。

つまりは、母国語以外の言語も、周りにしゃべってくれる人がいれば8歳くらいまでは、勉強なんてしなくても理解できるようになるはずなのです。

 

最近の若い人達は、英語の発音が綺麗です。限界期以内の、早期教育のお陰様だと思います。羨ましい。

 

30代を超えた日本人にとって、英語学習の最大のネックは、

 

英語の発音ができない

=会話で分かってもらえない(相手が何言ってるかさっぱり分からん)

=不快感 (哀しい、悔しい、ムカつく、等々)

 

というのがあると思います。

 

英語の発音が上手にできないから英会話、嫌い、という方には外国語で会話する愉しさを味わうために、是非ともスペイン語をお試し頂きたく思います。理想的には、南米を御旅行されることをお勧めします。

限界期を逃してしまった私達でも、発音が似ているスペイン語なら、英語と違い、カタカナ表記の例文を棒読みするだけでも、ナリに分かってもらえる確率が高いからです(ちょっとソレらしい抑揚つけたら、もう、完璧!)。

 

8歳までは本能で言語獲得する、

 

というのには、音感が大きく関わっていると私は思います。赤ちゃんは、

1. 周りの言語を聞いて、

2. どんな音がどの様に区切られて言葉を成しているのかに注意を払い、

3. 軟語で練習し、

4. それに対する周りの反応を感じて、言語を習得します。

 

8歳以前に多くの言語に触れないと、聴かない、話されない音は習得されず、言葉として識別し、発声できる音の幅がぐっと狭くなってしまうのです。

 

だから、日本人にはRとLの区別ができなかったり、THの発音がどうしてもできなかったりするのですね。

 

大人になってからでも、努力を積むことで、イイ線行けますが、(例えば、Rは、舌を口の真ん中に置いて、Lは舌先を歯茎につけて、THは、舌先を噛んで、等)かなり意識的な努力を相当長いこと続けなければなりません。

 

8歳前に母国語以外の言語に触れる機会を作ることで、外国語習得の難度が、ぐっと下がり、少しの努力で、多国語取得できる語学センスが身に付く、とも言えるでしょう。

TOEICや、英検といった、資格取得の為の英語学習は、クソだとは思いますよ。

でも、私的には、8歳前に他国の人と触れ合い、語学センスを高める機会を子供達に与えることに、リスクなんて考えられません

 

 

翻訳アプリで会話を成立させられれば楽なのは分かりますが、自分の言葉を他人が分かってくれることの喜びを生で感じられるのは、めっちゃ楽しいです。

 

自分でも何言ってるか分からない、ほにゃらら語を、

「誰かが分かってくれたー!!!」

という赤ちゃん的興奮(=理解された!という共感原体験)を大人になってから追体験できるなんて、外国語を学ぶことなくしては、滅多にできることではありませんからね。

高機能自閉症と父親機能 「ザ・コンサルタント」 

発達障害と、制御不可能な破壊衝動について書いた

発達障害のメタファー 亜人 - 精神分析のススメ

直後に、寝不足で頭グルグルしながら、飛行機に10時間以上乗って、普段は観れない (ちょっと古い)映画を5-6本観る機会がありました。

 

高機能自閉症ベン・アフレック主演のハリウッド映画なので、こんな子供時代で高機能って、ありえないでしょう…みたいな、無粋なコメントは控えますね)の主人公が出てくる、「ザ・コンサルタント」も観たので、父親の機能や、破壊的衝動の描かれ方について、「亜人」と比較してみました。

 

原題は、「会計士(アカウンタント)」となっており、退屈で、冴えない、しみったれたイメージの会計士が、実はダークなスーパーヒーロー(?)という予想外の展開になるはずなのですが…「ザ・コンサルタント」だと、外来語効果でミステリアスになってしまって、意外性は狙えない気が...

 

ベン・アフレックも、「グッド・ウィル・ハンティング」とか、「ドグマ」でのマット・デーモンとの共演が、良い感じでしたが

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「あれ?いつの間に、殺しても殺しても死なないブルース・ウィリスみたいな役どころになっちゃったの?」

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って感じでびっくりしました。

 

助演女優のアナ・ケンドリックも、

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トロール」観てからは、

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「ポピーが何で?!」

としか思えなくなってしまったし…

 

まあ、そんなの、記事の趣旨に関係ないので、どうでも良いことなのですが。

 

半分寝ながら観たので、かなり、印象に頼って書いてます。こちらの詳しいあらすじを大変有難く、参照させて頂きました。

blog.imalive7799.com

映画を御覧にならなかった方は、このあらすじを読んでからでないと、「ワケ分からーん」ってなるかもしれません。

 

 

まず、「亜人」と似てるな、と思ったのが、主人公と父親(的存在)との繫がりや、物語のカギとなる自閉症の治療施設、ハーバー神経科学研究所との繫がりが掘り下げられておらず(「亜人」ほどではないにせよ)説得力がないこと。

最近多い気がします。人間関係の描写でツメの甘い物語。

 

まあ、アクションがウリのハリウッド映画なので、関係性をそこまで緻密に描く必要はないのかもしれません。

発達障害系は、人との繫がりを構築するのが苦手なのでその辺も、もしかしたら意図的に狙った効果なのかもしれませんが...

 

父親が自殺して、キャラクターの描写も「え?何でこの人がこんなこと言う(する)の?」という驚きでいっぱいな「亜人」と比較して印象的なのが、「ザ・コンサルタント」では、父親が、とにかく「強い」「厳しい」キャラであること。

父親のイメージが希薄で、散漫な「亜人」に対して、「ザ・コンサルタント」では、主人公は、「強く厳しい」父親的存在の指南の下、若かりし自分の無軌道な破壊衝動や、過敏な感受性に方向性を見出し、戦い、自己実現の道をたどります。

 

 

子供時代に、ハーバー神経科学研究所で自閉症の診断を受けた(ベン・アフレックが扮する)クリスチャンを施設に入れて治療することを拒否した父親は、子供達を肉体的に、精神的に鍛えることで、クリスチャンに障害を克服させようとします。

自分の身を守る術を身につける為とはいえ、

「虐待かい?」

というような厳しい訓練を課す父親にビシビシ鍛えられて育つ、ヒーロー。

クリスチャンの父親との関係には、ちゃぶ台ひっくり返す昭和の父、星一徹(「巨人の星」あまりはっきり覚えていないのですが、私にとって、熱血スポーツマンで愛情深い古典的父親像になっていると思います。)にも通じる、厳しい規律や、肉体的、精神的強靭さにより、破壊的衝動のコントロール、ひいては建設的な自己実現を図る、という、洋の東西を問わない普遍的父親像が描かれているとも感じます。

 

 

ちょっと

「おや?」

と思ったのは、父親が治療を拒否したにも拘らず、クリスチャンがハーバー神経科学研究所と深い繫がりを維持していることや、特殊な治療プログラムに従っていることです。

 

大人になったクリスチャンが就寝前に、タイマーをかけて服薬し、フラッシュライトを明滅させ、音楽を大音量でかけながら脚をマッサージする、というシーンは、彼が何らかの治療計画に沿っていることを示唆します。

 

自閉症児の中には、治療や訓練によって健常者に近い機能を回復する子供もいますが、自閉症はいかに高機能であっても、遺伝子の異常を伴う、不治の病です。

 

発達障害は私の専門外ですし、処方箋のラベルを読んだわけではないので確信はありませんが)クリスチャンは、おそらく集中力を維持するためのリタリンとか、神経の興奮を鎮めるリスパダールを服用しているのでしょう。

 

自閉症児には、光や音に過敏で、触られるのを嫌う子供が多いので、刺激に慣れる様、訓練することが薦められることがあります。こういった治療計画は、研究所に負うのでしょうが、そこが(研究所長の娘との関係も含めて)ごっそり物語から省かれていたので、私的には物足りなさを感じました。

 

が、脚本家にしてみれば、クリスチャンの、ともすれば行過ぎた自己防衛技術が、父親によって情け容赦なく訓練された結果もたらされた、という設定を強調する意図があったのかもしれません。

 

その為、クリスチャンの父親は、もろ、攻撃性の管理専門という印象です。

その一方で、精神分析、てか、西欧思想に於いて、重要な父性機能の一つとされております、理性や知性でクリスチャンの鋭敏な感受性に方向性をつけ、「会計士」を育てたのには、おそらく、ハーパー神経科学研究所の治療方針や、彼が獄中で出会うアブナイ会計士、フランシスの存在が大きいように感じます。

 

亜人」と比較(日本とアメリカの比較とも言えますが)して面白いのは、圭の父親は、規律に反して社会的生命を失い、自殺するのに対して、クリスチャンの父親や、会計士としてのノウハウを伝授したフランシスは、殺害されることです。

この辺りに、エディプス・コンプレックスの根強さが窺えると思うのですが、欧米の父親は運命と戦い、暴力的に排除されるのに相対して、日本の父親は、物分り良く自分から死んで、若者に活躍の場をあっさり引き渡してくれる(無責任とも言う)のかなー、とか、考えてしまいます。

 

ここで、もう一人の父親的存在とも言える、司法に則る善玉のレイが、退職を目前に、商務省局長として、クリスチャンを追いながらも、排除されず生き残ることが興味深いと思います。

まあ、ハリウッドなので正義が勝って当然ですが。

って書いてたら、

これまた古い映画ですみませんが、

キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン - Wikipedia

でもトムハンクスがそーゆー父親像を演ってたなー、と思い出してしまいました。

「キャッチミー」でも「コンサルタント」でも、駄目(不十分)な父親を持った(放蕩)息子が、排除する必要を感じる事なく求め得る、「良い父親」「正しい父親」として、「悪者を捕まえる正義のヒーロー」的キャラクターが、物語に組み込まれている様に思われます。

「キャッチミー」も「コンサルタント」も主人公(息子)が司法(父親)に逆らい、追われながらも、自分のやりたい事(正義?)を貫くお話とも言えましょう。

父なるモノへの反逆と言えば、実際、「コンサルタント」には、(父親的)レイが、(見捨てられた息子である)クリスチャンに殺されかける場面があります。さあ、殺られるか、という瞬間、クリスチャンはレイに話しかけます。レイは「自分は完璧ではないが、良い父親である」と応じて、見逃してもらいます。

このシーンが、レイの回想で語られることにも、意味があると私は思います。

父親殺しには堪え難い罪悪感や不安が伴います。

父なるモノとの対決の物語は、無軌道な暴力を赦し、収束させ得た、生き延びる事ができた父親の視点からでないと、語り得ないのも当然のことでしょう。

 

「良い父親」がレイならば、クリスチャンを殺そうとするリヴィング・ロボティクス社のラマーは、殺害し、排除すべき「悪い父親」でありましょう。

亜人」の悪役、佐藤に比べると、ラマーの極悪さは、金銭欲に駆られていると言う点で至極明確な方向性を持っており、理解可能、手に負える様に感じられます。

 

このように分析すると、「コンサルタント」は、「亜人」の、自分が人と違うだけで排除される、理不尽な社会に受け入れられる為に、(自分の内面の)悪と戦う、という、「司法」とか、「規律」という厳然たる正義の欠如した世界とは全く趣が異なります。

欧米の、男性(man=人間)は、母親との一体感を、父親の「否」という言葉(知性や、規律の象徴)で切断されて男(人間)として成長する、みたいなことを言う、とってもラカンな解釈は、「亜人」の世界では通用しませんね。

 

何だか取りとめがなくなってしまいましたが、最後に、クリスチャンの弟との関係について、男が大人になる意味が含まれているように感じたので、ちょっと書かせて頂きます。

 

亜人」に描かれる、圭と同位置にある友人達との関係性は、かなり一方的な気がしました。

 

亜人」の圭は、対立を回避し、友達を一方的に切り捨て(お話の最後にはもっと深みが出るのかもしれませんが)ますが、「コンサルタント」のクリスチャンと、弟のブラクストンは、映画の終盤で殴り合いの兄弟喧嘩を始めます。

 

ブラクストンにとって、クリスチャンは、障害を持つ兄です。父親に、家族はお互いを庇い合うものだ、と教え込まれたブラクストンは、クリスチャンを疎ましく思いながらも、自分が面倒を見てやらなければならない、守らなければならない、という責任感を負って育ちました。

が、映画の終盤で、守るはずの兄、クリスチャンに、逆に守られ、救われるという、関係の逆転が生じます。

この様な、面倒を見る者と見られる者との関係性の逆転というのは、本来

守られ、与えられる存在であった子供が成人して親の面倒を見るようになる

という形で親子の間に経ち現れる瞬間でもある様に思われます。

それと同時に、自分を救ってくれた研究所に対する経済的支援をする為には、法に背き、殺人も厭わないという、自分なりの正義を貫くヒーローでもあるクリスチャンが、父親に培われた「力」を駆使して闇の世界の住人となってしまったブラクストンと和解する瞬間でもあります。

 

ハリウッド映画と漫画という全く違うメディアで比べるのには無理がありますが、「亜人」に比べると、より深みの在る関係性が描かれている様に思われます。 

亜人」に描かれている(ように私には思える)発達障害者の「どうしてよいか分からない、行き場のない破壊衝動」との終わりなき戦いが、「ザ・コンサルタント」では、強い父親、良い父親のお陰で、何とか治まりがついている為、自閉症患者の「親密になりたい気持ちはあるのだけれど、どうして良いか分からない」内的経験にもっと焦点が当てられて、深みのある作品に仕上がっている様に感じました。

 

因みに、高機能…ではありませんが、自閉症と言えば、かなり古いのですが「レイン・マン」の方が、現実味あるかな…って、会計士が闇のヒーローな「ザ・コンサルタント」に現実味がないのは、当たり前ですね。てへ。

 

崩壊した日本語での、とりとめもないお話にお付き合いくださり、最後まで読んで頂いた皆様には、感謝の念で一杯です。